■内津峠 18:00
 内津峠には、中央自動車道のパーキングエリアがある。その名もズバリ「内津峠PA」。そのため、「内津」の字面を見た記憶のある人も多いだろう。読み方は「うつつ」である。そんな内津の峠を自転車で越えようとしている男が一人。意識は混濁朦朧として、自分の置かれた状況さえも、夢かうつつか分かっていない状態である。

 後に知ったところによると、国道19号線はこの峠の中でももっとも低いところを越えているらしい。なるほど、地図に書かれた19号線の多治見近辺を見ると、その脇に下街道(善光寺街道)と書かれている。車でスイスイっといけない昔の人が開いた道ならば、低いところを進みたくなるのが人情と言うものだろう。中央自動車道からはだいたい、南へ1kmほどのところを走っている。もっとも近接しているところで500mに満たないほどだろうか。地図上では、2本の道の間に、春日井カントリークラブ、オールドレイクゴルフクラブなどと印刷されている。

 実際に19号線を走っていても、そんな事はまったくわからない。そんなものは見えない。夜の国道19号線内津峠は、真っ暗なのである。街灯は全くない。道沿いには運送会社か何かの事務所などがぽつぽつとはあるが、大して明るくはない。道上で地図を広げても、何がなにやらさっぱりわからない。意外なことに、いやと言うほどこちらを照らしてくる道行く車のヘッドライトも、地図を見る上ではほとんど役に立たないのである。いったい今、自分はどのあたりまで進んだのだろうか。さっぱり、分からない。八百津町の酷道418号線でも同じような感想を持った記憶がある。そう言えば、脳をてんかんに蝕まれると、既視感を頻繁に味わうことになるのだという。このいつか持ったような気がする疑問も、側頭葉が発するてんかん波によって見せられる一種のまやかしなのだろうか。

 どの程度の高さを、自転車を漕ぎ漕ぎ上ったのかは今でもよくわからない。息が切れると自転車を降り、手で押しながら坂を登る。これでは一向にペースが上がらないので、ある程度の力を蓄えると、再びサドルに跨って上を目指す。息も絶え絶えに喘ぎながら自転車に乗っての登坂であっても、歩きながら自転車を手で押していくのよりもはるかに早いのだ。峠道の途中には歩道が消滅したりする個所もあり、そういう個所には国道を跨ぐ歩道橋が設置されている。歩道橋の傾斜はきついから、登るときはもちろん手押しである。上りきれば平地、さらにその先には上った分だけの下りがあるのが歩道橋と言うものだ。階段部分を上りきったところで再び自転車に乗り、国道19号線の頭上を横断していく。

 何もない、平坦な道のはずである。しかし、ペダルを漕ぐ脚にはまるで力が入らない。完全に足腰が萎えてしまっている。それでも、歩道橋を端から端まで移動することは出来た。繰り返しになるが、道は平坦なのだ。緩慢な動作であっても、10回ほどもペダルを漕げば、片側2車線ずつの平均的な規格の国道を横断するだけの距離は稼げるのである。そして、それだけ移動すれば、さしあたって歩道橋を降りるまでは下り坂が続く。体重を自転車に預けるようにして、そのわずかの坂道を一気に下った。坂を下った後も、自転車には慣性がついている。坂を下りながらも必死の思いでペダルを漕ぎ、その慣性に自前の運動エネルギーを上乗せする。移動速度の速い騎乗状態で、少しでも坂道の上まで移動するための努力である。下り坂は終わり、自転車は坂を登り始める。それでもなお、ペダルは漕ぎ続ける。それまではスカスカの「手応え」しかなかったペダルを踏む足に、だんだんと重い感触がかえってくるようになる。それでも、サドルから腰を浮かし、立ち乗りの姿勢で上を目指す。転倒したのは、その時だった。

 前のめりに倒れた。体を前に押し出すようにしながら全体重をペダルに預けていたのだから、そうなったのも当然の事と言える。太ももから膝にかけて甚だしい負担をかけるこの走法を続けるほどの余力は、すでに残されていなかったのである。ふいに腰砕けになり、そのままバランスを崩し、自転車から転落した。

 自転車で転ぶのなど、いったいいつ以来だろうか。ここ数年、いや、十数年は記憶にない。源頼朝は、落馬した時の傷を悪化させて亡くなったという。武士にとって、馬は草鞋と同じだった。もちろん、武家の頭領である頼朝にとっても、馬は草鞋同然のものだった。そこから、落ちた。いわば頼朝は落馬した時に、武士として死を迎えたようなものなのかもしれない。その社会的な死が肉体の死に直結することになるとは、奇妙な縁である。転んだ時、なぜかそんなことを考えた。私にとって、自転車で転ぶとは、頼朝にとっての落馬と同じだったのかもしれない。

 アスファルトの上に横たわり、倒れたままの自転車を立て直す気力もわかない。

 もしこのままここで衰弱していけば、明日の朝を待たず凍死する可能性が高い。この道が真っ暗なのはすでに述べたとおり。車の交通量は多いが、歩行者は、少なくとも夜間は全く通りそうにない。このまま倒れていれば、歩道脇の植え込みの死角になって、ドライバー側からは視認されまい。いったい、今これを読んでいる人は、道に倒れて誰かの名を呼び続けた事があるだろうか。人事に言うほど黄昏は優しい人好しではないようだ。なるほど、携帯を使って誰かにSOSを送ることは可能だろう。ここはあの酷道とは違い、圏外ではないはずである。

 「しかし…」と、躊躇が生まれる。誰かに強制されたわけではない、自分で望んでこの道を走ってきたのである。苦境に立たされたからといって、そういう時にだけ人に助けを求めようというのも、いかにも甘ったれた話である。かの浜崎あゆみは、こんな言葉を残している。「一人きりで生まれて 一人きりで生きていく」。それとは別の誰かが、誰だったかは記憶にないのだが、こんなことも言っている。「人は生きる限り一人だよ」。蓋し真理であろう。見苦しくあがいて、末期を汚すこともあるまい。それに、旅の空で野垂れ死に。あらためて考えてみると、それはそれで贅沢な死に様なのではないか。

 「そろそろ潮時なのだろう」。そんなことを考えた。幸い、遺書は家に残してきている。予定では酷道で木曽川に転落して死ぬはずだったのだが、少しばかり予定が変わってしまった。遺書はかえって警察の捜査をミスリードすることになるかも知れぬ。冷たくなった死骸と、持ち主を失った自転車が発見されるのはいつのことになるだろうか。

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