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| 名古屋が買った薩摩の恨み |
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徳川御三家の筆頭尾張徳川家は、六十二万石の石高を誇る大名家だった。加賀前田藩の百万石、薩摩島津藩の七十七万石には及ばないものの、仙台伊達藩と並ぶ大身である。尾張は戦国の頃から生産力の高い国だと言われていたが、時代が下って江戸時代になっても、尾張一国で六十二万石の表高（公表石高）を稼ぎ出していたわけではなく、尾張藩は尾張の周辺地域も広く支配していたのである。例えば、長野県塩尻市の国道19号線沿いには「是より南木曽路」と刻まれた碑があるが、尾張藩の支配地域はここまで及んでいた。木曽路はここから60〜70kmほども続くが、木曽谷を抜けたところにある岐阜県中津川市は、当然まだまだ尾張ではない。
話は少々、と言うよりむしろかなり飛ぶが、木曽谷から直線距離で百数十kmのところに熱海がある。百数十kmならそれほど遠くないようにも思えるが、二地点の間には富士山があり、赤石山脈（南アルプス）があり、木曽山脈（中央アルプス）があり、そう簡単に移動できるような位置関係にはない。その熱海の人たちの話す言葉は、私の故郷である三河の言葉に近い響きがある。その事実を知った時には、かなり意外に思ったものだ。熱海は極端であるにせよ、三河の文化習俗は隣接する静岡県、特に遠州地方に近い。東三河エリアは遠州とほぼ同質の文化圏であると言ってしまっても良い。ちなみに江戸時代の三河は小藩の割拠するところであり、尾張藩からは独立していた。それ以前の戦国時代、織田信長は尾張を本拠に美濃（岐阜県）伊勢（三重県）近江（滋賀県）などを支配し、その同盟者である徳川家康が三河と遠江を領有していた。
前置きが長くなったが、現在の愛知県は、塩尻にまで広がりを持っていた尾張国と、文化的には静岡との共通項が多い三河国が合体して成立した県だ。実際、名古屋をはじめとする尾張と三河では、言葉遣いをはじめとして文化がまったく異なる。ステレオタイプのテレビ番組では愛知県民はみな名古屋弁を話したり、名古屋流の結婚式を行う事にされていたりするが噴飯物である。さらには当の尾張人と三河人の間には今も心理的な障壁が存在している。三河人は尾張に対して妙な敵愾心を抱いているし、尾張人は三河の事など歯牙にもかけていない。同じ県内だという意識さえも希薄だ。
何故このようにいびつな県が生まれたのかは定かではないが、巷間の俗伝では、明治維新でこの国の政治の中枢に食い込んだ薩摩人による宝暦治水への意趣返しであるという説がある。もともと結びつきの強かった濃尾を別々の県に分け、あまり折り合い良くない三河とくっつける事で新時代における尾張閥の影響力を殺ごうとしたというのである。そんな馬鹿な。
宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間（18世紀半ば）に幕府の命で薩摩藩が行った木曽川の治水事業のことだ。当時の木曽川は大変な暴れ川だったため、いわゆる天下普請のような形で治水を行う事になった。そこで白羽の矢を立てられたのが、前述の通り外様・親藩合わせた中で第二位の国力を誇っていた薩摩藩だった。もちろん、幕命による土木事業が半分は諸大名の国力を削る目的で行われたものだった事は言うまでも無い。
果たして、宝暦治水は薩摩藩の財政を極限まで逼迫させる難事業となった。薩摩藩士たちは国許を離れ、死ぬ思いで治水工事に携わったのだが、その苦労も報われず、工事は大赤字を生み出し、工事責任者は自身が人身御供となる覚悟で文字通り詰め腹を切り、事態を収拾させざるを得なかった。この工事は、薩摩藩にとって何のメリットも生み出さないものだったが、木曽川流域の住民は我と我が身を削って工事に尽力した薩摩の藩士たちを「薩摩義士」と呼び、今でも感謝の念を忘れない。現在でも、薩摩藩士たちの地元鹿児島では、その名も誇り高い「薩摩義士」という焼酎がある。現地でそれを知ったときの私は、鹿児島中央駅のコンコースで立ち腹を捌きたくなったほどである。捌いたら死んでしまうのでやらなかったけど。
とりあえず木曽川流域の人たちは今も薩摩義士達を顕彰し、その御霊を篤く祭っているのだが、当の薩摩隼人たちから本当にそんな風に思われていたのだとしたら悲しい。ていうかそもそも薩摩藩に無理難題を吹っかけたのは尾張藩ではなくて幕府なんだけど、徳川なら同罪という事か。
ちなみに、木曽川の堤防は尾張側が高く、美濃側が低く作られていたとも言う。これに関してもどの程度信用できる話なのか裏を取っていないが、大水が出たとき、水を美濃側に逃がして尾張を守るためだ。そのためか木曽川洪水の被害はいつも美濃が被る事になった。この遺恨はかなり最近まで続いていて、一昔前に名古屋市が「堀川に導水するので木曽川の水を使わせてつかあさい」と岐阜県にお願いしたところ、美濃の方に低い木曽川の堤防の恨みを語られて断られた事がある。
尾張名古屋は、木曽川がらみであちこちから恨みを買っているのか。
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