ジョニーとだるま女

  「ジョニーは戦場へ行った」と言う映画を、私は見た事がないのだけれど、人づてに話を聞く限りその評判は高い。これは一般に反戦映画だと言われるが、どうも名作などと言う気安い代物ではなさそうだ。むしろ怖い映画である。あまりにも残酷な極限状態を生きる人間の記録として、特異な存在感を放つ作品なのだろう。以下にあらすじ。いわゆるネタバレと言う事になるかもしれないが、もともと有名な映画だし、筋がわれて見る価値が減じるような物語でもない。

 この作品の主人公は、戦場で両腕両足と目、鼻、耳、口を失いながらも一命を取り留めた。しかも奇跡的に明瞭な意思も残っている。しかし周囲の人間、つまり医療関係者は彼に意識があるなどとは考えず、身体に深刻なダメージを負いながらそれでも生命活動だけは続けている稀有な生体サンプルとして、半ば物体のように彼を扱っている。そして主人公は無音の闇の中で、幸せだった昔の事を思い返しながら日々を送るのである。物語のクライマックス、主人公は自らの死を願う。いや、正確には「自分の姿を見世物として人々の前にさらすか、さもなくば殺してくれ」と周りの人間に訴えかけるのだ。

 おかしな話だが、このシーンの事を聞くとだるま女の話を思い出す。過去にはどこかの掲示板でだるまの話と「ジョニー」に相関があるのではないかという自説を開陳している人を見かけたこともあるし、それほど突飛な連想でもあるまい。あれは、両手両足をもがれて見世物にされる女を主人公にした話である。場合によっては舌を抜かれてしゃべれないようにされていることもあるが、視覚と聴覚、そして嗅覚が残されている。ならば、「ジョニー」よりは恵まれているのだろうか。だるま女とジョニー、そのどちらの方により救いがあるかは簡単に答えの出るような問いでもなさそうである。

 言うまでもなく、だるま女の話は特定の作者がいない都市伝説だ。聞く者・語る者の怖い物見たさと嗜虐性とを満たすため、次第次第に残酷な描写が付け加えられていき、時には行き過ぎてリアリティを失わせてしまう過度の演出が削られたりして完成された極限の残酷と恐怖の物語なのだろう。しかしそれでも「ジョニー」は、だるま女同様の境遇に身をおくことを望んだ。やはり私は、「ジョニー」の身の上の方がより過酷なのではないかと思う。

 「ジョニーは戦場へ行った」は、どうやら完全なフィクションではないらしい。その昔同じような境遇を生きた傷痍軍人がいて、その人の生涯から着想を得て紡がれた物語なのだそうだ。おそらく作者は、全霊をこめて「ジョニー」の残酷な運命を構想し、物語を書き上げたのだろう。そこへ行くとだるま女は、やはり巷の人々が思い描く最大公約数的残酷さの象徴でしかないような気もする。

 「事実は小説より奇なり」と言う。今回の話の場合、事実のポジションに「ジョニー」の逸話を、小説の部分にだるま女の話を対応させる事もできる。もしかすると、残酷話の典型のように思えるだるま女の話でさえ、作り話が事実ほど残酷にならぬよう無意識下でブレーキを踏み込む人間の想像力が生み出した妥協の産物なのかも知れない。とかく無限の可能性があるかのごとくいわれる人間の想像力も、実際には常識に縛られた案外と不便な物なのかもしれない。























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