空転、損耗する善意

 プルタブを回収して車椅子と交換するという活動は今も広範で行われているものなのだろうか。以前にこの話題を取り上げたところ、しばしばその交換方法について検索しているらしい人の訪問を受けるようになった。二昔前なら、「プルトップを集めれば車椅子と交換してもらえると言う話は事実無根のデマですよ」となって終わりだった。元来これは、そういう話なのだ。

 ここで以前の記事を元に、プルトップ伝説のおさらいをしておこう。確かに一昔前なら、学校単位でプルトップ(プルタブ)を集める人たちもいて、私の通っていた中学校でもプルトップ回収運動が行われたことがあった。その頃、プルトップすなはち缶ジュースのふたは、缶本体から完全に切り離されるタイプのものであった。今のステイオンタイプのタブにも言える話だが、プルトップの離断面は意外と鋭利になる。缶から分離してしまうタブの場合、その小さな刃物のようなタブがよくあちこちに散乱してしまったので、資源回収や環境美化以外に安全確保の観点からも散逸したプルトップの回収が行われなければならなかった。

 「プルトップ伝説」の誕生と伝播は、こうした動きを促進するために要請されたものでもあったのかも知れない。いつしかプルトップ回収運動は、日本各地の学校組織などを中心に広まりを見せていった。ところがその最初期には、せっかく集めたプルトップの送り先が分からず途方に暮れる人が出現するという、笑うに笑えない事態が発生していた。「プルトップを集めて車椅子」の話は、もともと実体のない単なる噂話だったのだ。早川洋行著『流言の社会学』によると、この噂のルーツは少なくとも1988年の広島県呉市までは遡れるらしい。散乱したプルトップを自主的に回収、換金して車椅子を購入した人たちは意外に古くからいたようだから、「ベルマークやグリーンマークよろしく回収したプルトップを車椅子と交換してくれる組織がある」という形の噂が1988年の呉市から始まっているということなのだろう。

 御伽噺も同然の絵空事の運動が現在のような現実に持続可能な形になったのは、運動に参加した人の善意が無に帰すのを惜しんだ篤志家やこの運動を完結させることによって社会貢献事業を行おうとした企業などの活動あってのものである。今となっては「プルタブ」をGoogle検索すればスポンサーサイトとして「プルタブアルミ缶回収運動」を行っているサイトが表示される有様でもある。

 どうやらそうして発生したプルトップ回収運動は、現在に至るまで脈々と受け継がれているようである。しかしこの運動、缶ジュースの蓋がほとんど全てステイオンタイプに切り替わった現在でもわざわざ缶とプルトップを切り離して回収を行っているらしい。以前、なぜそうするのかについて合理化図っているサイトを見かけたことがあり、別にこちらにそれを否定しなければならない事情もなかったので特に批判らしい批判もしなかったのだが、今改めて考えるに、やはりこの方法は間尺に合わず、さっさと廃れてしまった方が良いのではないかと思うことさえある。善意の生まれるところとその向けられるところを結ぶ伝送路上で、決して少なくない善意と労力が損耗している気がしてしょうがない。

 普通に考えれば、プルトップを集めたならさっさとそれを金属回収業者に持ち込んで換金し、そのお金で車椅子を買って施設に寄贈すれば済む話だ。しかしそれをそうせずに、プルトップを車椅子に交換してくれる団体を探そうとしている人の意識下には、「プルトップを集めて車椅子」が通常では成立しないどこか無理のある話だと言う自覚が多少なりとも存在しているのではないだろうか。合理性に問題があるから、その非合理を特殊な団体に吸収してもらおうと考えているのではないか。意地悪な事を考えてしまう。

 今ではもう、環境保全の観点からプルトップを回収する意味は失われた。では、思いやりの心をプルタブ回収によって表さなければならない理由はあるだろうか。「手間をかける」こと、それ自体が尊いと言う考え方でもなければ他に適切なやり方はいくらでもあるだろう。





















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