「信じたいから信じてる」理論

 時々ある話なのだが、無断盗用に関するタレ込みがあったので、そのパクっているとされるブログをこっそり覗きに行ってみた。見たところ、自分で書いた文章ではない事を宣言した上でコピペしているので、盗用云々については問題にしようとは思わないが、ちょっと考えさせられるところもあった。

 コピペされたのは、「久本雅美が創価学会の圧力を背景にウンナンを潰した」という「2ちゃんねる」で見かける噂について書いた箇所である。ただし、私が自サイト用に書いたものには「大した根拠もなく語られている風聞」という寸評を付けているが、コピペ先ではその部分はバッサリとカットされ、あたかもそれが既成事実のような紹介のされ方をしていた。要は、相手がガチガチの反創価に凝り固まったサイトで、あらゆるネタを駆使して創価を貶めるための活動の一環として、こちらで書いた文章を利用していたというわけだ。かの「あるある大辞典」を初めとしてマスコミが時折使う、専門家のインタビューを取り付け、自説にとって都合の良い部分だけを編集して流すという、古典的な権威付けの手法である。

 繰り返しになるが、この「久本に潰されたウンナン」の話は所詮与太話の域を出ないものであり、登場人物の関係など語られている内容にはかなり不自然な部分もある。先方ブログにつけられたコメントの中にもその部分を衝いたものがあった。当然である。巷に流布する与太話を、与太話であるという部分を伏せて紹介しているだけの代物なのだから。しかしそれに対するブログマスターの切り返しがこうだった。「火のないところに煙は立たない」と。

 つくづくこの「火のないところ」は便利な言葉だなあと思う。この言葉に根底にあるのは「世間様が言うことにゃ、多少の瑕疵はあっても大きな間違いはあるめぇ」という発想だ。こと噂話に関して、煙なんぞは火のあるところにだっていくらでも立つものであって、「世間」のいうことなどさしてあてにならないものなのだ。しかし、一般に「世間」というのは権威ある情報源の一つと認識されている。

 実は、噂だ都市伝説だといったことをやっていて不便を感じるのがこの部分でもある。都市伝説稼業では、普通に生きていればまず信じて良い情報とされるべき「世間」の言うことを、いちいち疑ってかからなければならなくなる。これが実にしち面倒くさい。おそらく「『世間』は正しいもの」と決め付けてしまうのが、人間が長い年月を経て獲得した効率的に生きるための知恵だろう。おそらく市井の人々も、「世間」がそこまで信頼するに足るものでない事には気づいているはずだが、あえてそこには気づかない振りをしているのに違いない。

 そんな「裸の王様」の如き「世間」の物言いだが、裸なりにも王様なのでそれなりの権威を認められている面があるからややこしい。例えば、先述のブログマスター氏。彼なのか彼女なのかは知らないが、氏が、「噂として語られるものの中にも何かしらの真実は含まれているはずだ」と確固たる信念のもとにどこの馬の骨が作ったとも知れぬサイトの記述を既成事実めかして引っ張り出したのか、それとも確信犯的に「利用できるものなら何でも使っちまえ」とばかり政治的意図を持ってあんな事をしたのかは定かではない。けれどどちらであるにせよ、世間が言っている事はおおよそ確かであり、したがってそれなりに権威付け作用があるとは考えたのだろう。

 コインの裏表のような話だと思っているのだが、他にも気になっているところがある。個人的に「都市伝説・信じたいから信じている」現象と呼んでいる話である。センスのない呼称には目をつぶっていただきたい。別に難しい話ではなくて、一見都市伝説を妄信してしまっている人は、見識が不足しているからそうなっているのではなくて、何かしらそうなる必要があって自分の見識に覆いをかぶせてしまっているのではないかと思うことがあるのだ。これが如実に出ていると思うのが「ショッピングセンター伝説」を信じる親の心理である。

 このうわさはしばしば地方紙の紙面をにぎわすニュースとなり、そのことがネットでも話題になり、「昔からある都市伝説の類だよ、蒙昧な奴らめ」と言わんばかりの「事情通」の冷笑を買うパターンとなる事が多い。大抵の大人は、「過去に酷似した噂がまったく別の地域で流行した事があり、しかもその時も噂の元になる事実はたどり着けなかった」という情報を突きつけられれば、今自分が耳にしている同様の噂も眉に唾して聞く性格のものである事は理解できるはずだ。しかし、実際にはそう考えない人も多いのである。

 では彼らの思考力が劣っているのか。否、日本各地に流布しているディズニー出入り禁止伝説に接し、自分の聞いた話こそがオリジナルであるという我田引水的解釈をしてしまう小中学生とは訳が違う。どうも彼らは、そうしたうわさを信じたくて信じているように見える節がある。「信じたいから信じてる」という表現に問題があるなら、もう少し後退して「否定しきれないから信じている」でも良いか。どうも自分なりの判断を示す事に及び腰で、無難に付和雷同しているだけのもののような気がする。都市伝説に惑わされやすいかどうかは、単なる情報格差だけにはよらず、結構個々人の性格特性によるところが大きいのではあるまいか。

 どうもうまくまとめられて良くないのだが、このあたりの考えは、今後長い時間をかけて熟成させていきたい。とりあえず今回の結論としては次のようなところ。うわさ・都市伝説は世間の意見に他ならない。従って、理念や思想の裏づけに一応の権威である「世間」を利用する者もいれば、独力でそれに抗いきれない者もいる。

 ちなみに「世間」というのは日本独特の概念であって、例えば英語には単独で「世間」に対応する単語が存在しない。日本生活が長い英語講師などは、「世間」が制度や仕組みではなく共同体意思のようなものであって、彼らの言うsocietyでないことを知っている。日本では当たり前のように存在する「世間」という概念の正体もまた興味深いところ。
























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