薩摩の猛将

 伊集院にその像があった島津義弘は、古くから鹿児島でも伝説的な偉人とされてきたと言う。それに対して吹上方面は、最近注目が高まっている小松帯刀にゆかりの地のようだ。道すがらには帯刀の墓の所在を示す看板もあったが、今回はあくまでも島津氏の先祖筋にちなんだ史跡を巡るのが主旨である。いくらか後ろ髪を引かれるものがあったが、帯刀の墓はスルーした。

 伊作城は、日置の市街(と言うより集落と言った規模か)の外れの里山のようなところにあった。現地の案内では亀丸城となっている。地図を見てある程度わかっていたことだが、深山でもなければ急峻な地形でもない。そこに展開されている城も、これまで本州でしこたま見学してきた山城に比べると、明らかに趣が違う。各曲輪間の連絡が、山城でありながらさほど立体的ではないのだ。一宇治城と同じく、比較的独立性の高い削平地が何箇所かに分かれて設けられ、空堀兼通路によってあるいは隔てられ、あるいは結び付けられている。曲輪の分布範囲は、なるほど、かなりの範囲に及ぶようだ。しかし伊作城の場合、縄張り内をアスファルト舗装の道路が横切っており、それが古城址の趣を失わせているような気もする。

 狭義での亀丸城は、伊作城に分布する曲輪の中でも最も重要な一つの事を指す。いわゆる、本丸に相当するものである。ここに日新斎・義久・義弘・歳久・家久、そして名も無き姫君の誕生石が建立されている。それ自体は何の変哲もない石碑なのだが、戦国九州のビッグネームが、軒並みこの城で生を受けたことを思うと感慨深い。あまりに感傷に浸っていたから、でも無いが、帰り道の木橋で足を滑らせて、したたかに尻を打ちつけた。久しぶりに蒙古斑が出来てしまったのではないかと思うほどに傷めたが、幸い車の運転や歩行と言った行動には支障が無さそうだ。しかし何となく気勢をそがれ、先を急ぐことにする。

 次なる目的地は鹿児島城である。もちろん鹿児島市内にある城跡で、こちらは一名を鶴丸城と言う。亀丸城と鶴丸城でペア作っているのかどうかは定かではないが、カーナビによれば、伊作城あたりから鹿児島市を目指そうとすると、山越えで錦江湾近くの丘陵地まで走り、有料道路を北上する形になるようだ。山間路が難路になるかと思われたが、道は思いの外快適で、11時頃には鹿児島城近くに到着できた。

 日本全国津々浦々の復元天守に行くと、中は資料館になっていることが多いのだけれど、しばしばその一角に城の番付表が飾られているのを目にすることがある。全国の城を、有名どころや大大名の城から順に横綱大関に見立てて並べたものである。半ばお遊びなのだが、そうした番付の中で、西の横綱大関級に挙げられているのが鹿児島城である。城主島津氏が国内屈指の大身なのだからある意味では当然なのだが、実際の鹿児島城は随分と小さい。城山と呼ばれる低山を背負う形になっているのだが、その山と水堀に囲まれた主郭部はかなり狭い。聞けばもともと御殿があった程度の簡素な構えの城で、七十七万石の大名の城とは思えない。その小さな城跡に、現在ではひしめき合うように美術館や図書館といった文化施設が建っているから、どうも曲輪内は城跡という雰囲気ではない。まあ、それでも堀側から見ると形にはなっている。何にせよ、城山は見ないという方針でいたし、見るところは多くなかったから、近場にあった西南戦争時の弾痕が残る石垣、そして薩摩義士の墓碑に詣でて、鹿児島城見学は一区切りとした。

 ここからは、鹿児島県の東の端、志布志を目指す。まずは鹿児島湾を横切って桜島に渡るため、フェリー乗り場へ移動しなければならない。






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