ひと時の宮崎

 3月11日。まだ日も昇らぬうちからマリノーヴァを出て宮崎駅を目指す。途中のコンビニでおにぎりをいくつか買い、歩きながらそれをほおばったが、コンビニのおにぎりとは言え、これほどわびしい味がしたのは始めてである。今日はこれから宮崎駅を始発で発ち、延岡城、臼杵城、大分城、岡城と、九州の西海岸を北上しながら城を落としていく。経由地から分かるとおり、夜には大分市入りする予定だ。結局宮崎市は、夜更けにやって来て未明に発つことになったから、これと言う印象も残らなかった。

 西国の夜明けは遅い。未明の出発とは言うものの、宮崎駅発は時刻にして6:09。ここから一時間半近く列車に揺られて、7:33に延岡駅着となる。5時台の列車に乗ることを思えばいくらかは常識的な時間の出発と言うような気もしてくるが、早朝は早朝である。単調な揺れに身を任せていると、次第に眠気も催してくると言うものだ。当初は立ち寄るつもりでいた佐土原駅で、降車した客が踏み切りの無い線路を横切る形で駅を飛び出し、車掌に叱られているのを聞いた記憶はあるのだが、その後は気がつけば延岡の駅に到着していた。

 延岡は宮崎県内でも最北部に位置する都市である。2009年春段階で人口は15万人に満たない小さな町だが、それでも地域の中核としての機能を担っているという。近年では工業都市としての色彩が強く、観光業で売っている感じではないが、これから訪れる延岡城は、市内の一つの名所とはなっているようだ。

 歩くこと30分ほどで延岡城に到着。昨日、数々見て回った鹿児島県内の城とは違い、いかにも近世城郭、これぞお城と言う雰囲気の石垣を残す、平山城である。圧巻は千人殺しと呼ばれる高石垣だが、天守はもちろん櫓などの建造物は残されていない。いっぱしの城跡ではあるのだが、特別に目を引く何かがあるかと問われれば、そういう感じではない。九州のこの地域に、これだけの石垣を築いた点は評価ポイントとなるのだろうか。見学を追え、そんなことを考えながら、駅への道を引き返す。途中、旅先での定番食事処となっている吉野家を探すが、影も形も見当たらない。吉野家に限ったことではないが、道々には店も少ない。駅と城の間が延岡の中心部から外れているだけなのかもしれないが、少々寂しい感じの街並みである。

 延岡から先は、9:09発の特急「にちりん」で移動する。鉄道マニアの間では有名な話らしいが、延岡‐佐伯間は普通列車の本数は少なく、カーブが多く、勾配もきついと言う三重苦の区間で、接続が悪い上にスピードのでない、不便な区間なのだと言う。こんなところで18きっぷ使いたさに普通列車を待っていたのでは、やたら長時間にわたって足止めを食うことになる。ここは節約よりも利便性を優先させる局面だと判断した。もっとも、この区間は特急でもあまりスピードが出せないらしく、地図で見る限り60km〜70km程度しかなさそうに見える距離を、1時間半近くかけて移動することになるのだが。

 かくて思ったよりは苦労(?)を重ねながら到着した臼杵は、磨崖仏に代表される史跡の街で、都市規模は小さいながらも、ちょっと味気なかった延岡に比べれば随分観光地している。臼杵駅を出ると、目の前にはお約束の石仏が鎮座していた。多くの観光客は、どうやら郊外にあるらしい本物の磨崖仏を見学しに行くのだと思うが、私が目当てとしている臼杵城は駅から歩いて5分ほどのところにあった。

 臼杵城は、旧名を丹生島城という。その名の通り、古くは海にせり出した島の上に築かれた海城だったが、現在では海岸線が随分と前進しており、周囲は市街化、ぽっこりとした形の丘陵上に城郭遺構が残されるばかりになっている。もともとは大友氏の城であった。南から侵攻してきた意気天を衝く島津軍を前に、篭城兵が虎の子の国崩し(南蛮渡りの大砲)を持ち出し、敵の心胆を寒からしめた歴史がある。なお、島津氏はついにこの城を攻略出来なかった。

 島津氏を退けたのは、城自体が要害だったためか、国崩しの威力だったのか、定かではないが、とりあえず城に上ってみることにする。周辺よりは20〜30mほど高い丘のように見え、これに加えて周囲が海だったことを考えると、なるほど確かに攻めにくい城だったのかもしれない。それにしても、城跡は再整備工事中だったと見え、立ち入り出来ない区画等があったのが残念だった。ついでに言えば、城跡に設置されていると言う国崩しのレプリカもこの時は見つけられなかった。工事の関係でしまわれていたのだろうか。






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