戸次川彷徨

 一応4日目ということになるのか。3月12日。今日はまず、大分市郊外の鶴賀城を見学した後、中津まで移動して車を借りる。ここで中津の山中、津民耶馬溪近くの長岩城を見て、余裕があれば羅漢寺にも立ち寄り、さらに中津城を見て福岡県方面に移動。時間があったら小倉城も見て行くが、最終目標は博多入りすることである。「余裕があれば」「時間があれば」という条件ばかり書き連ねてしまったが、実際のところ、そうは問屋がおろさないだろう。

 6:21の豊肥線下りに乗り込む。ここから20分少々列車に揺られ、竹中の駅で下車する。今日は車の運転を予定している関係でじっくりと睡眠をとる必要があった。となると早朝からの行動開始がネックになる可能性はあったのだが、ホテルさとうが大分駅まで徒歩1分ほどのところにあった関係で、早起きしながらも最大限の休養をとることができたので助かった。

 鶴賀城は、さほど知名度のある城ではない。歴史的事件に関連した城ではあるのだが、その事件が教科書的にはさほど重要ではないのだ。豊臣秀吉が、自政権に反抗的な薩摩島津氏を討伐し、恭順の意を示していた大友氏を守るため、ひいては九州に豊臣政権による秩序を打ち立てるため軍勢を起こした九州征伐。その緒戦の舞台となったのが鶴賀城だった。鶴賀城は大友氏の本拠地府内城を守る最後の砦であり、これが落ちると大友氏は島津氏の軍勢の前に丸裸で放り出されるも同然の状態になってしまう。ここが島津群の猛攻に晒されたため、秀吉が援軍を派遣し、戦いはひとまず島津軍対援軍の野戦へと移行して行った。いわゆる戸次川合戦である。この戦いでは、豊臣方の先手となった四国勢が島津軍相手に大敗を喫しており、四国の主将とも言えた長宗我部元親の嫡男・信親はこの戦いで討ち死にしている。豊臣方の事実上の総指揮官であった仙石秀久の拙速な戦術が招いた惨敗であったとされる。

 鶴賀城跡は、竹中駅から大野川を挟んだ反対側の山中にあるらしかったが、駅の近くに橋がないために、鉄道で近くまでやって来ると、その先城跡まで随分と回り道せざるを得ない。この時、地理不案内ながら上流側から迂回するルートを選んだのだが、結果的にはこれが誤りで、とにかく城の取っ付きのさらに手前にある信親の墓までたどり着くのに1時間半を要した。駅に着いて川をわたるまでの移動は比較的速やかに行ったため、今日一日はスムーズに行動できるかと思ったのだが、獲らぬ狸の何とやらだったようだ。

 ともあれ、墓から本丸跡までは近い。徒歩で30分ほどである。セメント工場の裏山という色気のない立地ではあるが、登城路の途中までは車も通れそうなしっかりとした道だし、さほど急な坂道もなく、非常に歩きやすい。道中、散弾銃のショットシェルが落ちていたり、鹿か何かの脚が転がっていたり、それを狙ったのか夥しい数のカラスの群れが空を飛び交っていたり、物騒にして血なまぐさい光景に出くわすことが多かったが、難路に悩まされることもなく本丸跡までたどり着くことが出来た。まあ城としては、少なくとも現存している遺構規模からは、さほど大きなものでもなく、戸次川合戦をめぐる代表的史跡という位置づけが妥当なところだろう。

 大分駅までの帰路はバスを利用。実は路線バスの停留所も信親墓の近くに存在している。本数はさほど多くないのだが、タイミングさえ合えばこちらの方が鉄道よりも遥かに便利だろう。

 大分から中津までは、再び特急「ソニック22」を利用する。この区間も普通で移動するのが少々厳しい。途中で大分最大級の温泉地・別府を通り過ぎるのだから通過客そのものは多いと思われるのだが、普通を増発しても採算が合わないのだろうか。私は逆に、別府には立ち寄らない。しかしながら、別府駅周辺の車窓風景は、雄大な自然と人々の営みとが同居する味わい深いものだった。ここも、いつかチャンスがあったら再訪したい場所の一つとなった。






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