血塗られた城

 バスで上田駅前まで戻り、再び鉄道の旅に復帰する。続いて降り立ったのが、小海線北中込駅である。古い旅行記に、幾度かその名の出てきた旧友・マスター邸の最寄だった駅だ。もっとも、彼はすでに碓氷峠を越えて関東に雄飛していったため、この地には一人の知己もいない。目指すのは、この日二番目にして最後の攻略目標となる志賀城だ。

 佐久地方は、若かりし日の武田信玄の主戦場だった。見方を変えれば、父・信虎の代から積み残した宿題の地でもあった。志賀城もまた、佐久の戦場の一つとなった城である。この城は、信州から上野国(群馬県)方面へと抜ける交通の要衝に面した城だったため、信玄にとっても重要な攻略目標の一つであったが、信玄の動きに危機感を強めたのが、上野に勢力基盤を置く関東管領・上杉憲政である。志賀城を助けるため、援兵を送り込んだが、かえって武田軍に破られてしまった。そして信玄は、それでも頑強な抵抗を続ける志賀城中の士気をそぐため、討ち取った三千とも言われる生首を、城に向けて並べたのである。

 最終的に城は落ちた。

 一連の戦いにおいて生き残った城兵やその子女は、人身売買の具にされた。人身売買自体は、当時さほど珍しくはなかったということだが、志賀城の一件については、その仔細がよく記録に残されていたため、戦国時代のそうした風習を知る史料として、広く知られている。

 問題は、生首三千個の方だ。こちらは、いかに戦国時代といえども、ざらにはない残虐苛烈な仕置きであり、後に仁政家として知られるようになる信玄の経歴に、一つの汚点を残すことになったと言えなくもない。

 そんなエピソードのある志賀城だが、北中込駅が最寄り駅になるとは言え、城跡まで5kmほどの距離がある。そして、その間に公共交通機関が存在しない。厳密に言えば、平日の遅い時間帯にはごく限られた本数のバスが志賀方面に向かって走っているのだが、いずれにせよ今回の旅の役には立たない。仕方なく、駅から歩くことにした。果たして、1時間あまりの時間がかかった。道中、何の気なしに指のささむけを剥こうとしたら、肉まで裂けて予想外の出血があった。ふいに、城の持つ凄惨な歴史を思い出す。何か、祟りみたいで気持ち悪い。

 志賀の集落は、単なる農村地帯というよりは、宿場町のような面影を残す古い町だった。バス停もあるにはあるが、その名前が「ポスト前」停留所になっていたり、典型的な田舎町の風情だ。その一画、雲興寺というお寺の裏山が問題の志賀城跡で、どうにかそこまでたどり着くことができたものの、登城口とその先に延びているはずの登城路が見つけられない。墓地があったり、なまじそま道のようなものがあったりして、正解が分からないのである。時間は4時半を少し回った。盆地の日暮れは早いのか、あるいは曇天が災いしているのか、時間の割には空が暗い。それでなくても血腥い逸話の残る城である。苦労してここまでやって来はしたが、あまり深追いする気にもなれず、なんとなく城山の山すそをうろうろしただけで撤退を決めた。

 帰り道の途中、雨が降っていた。

 初日の宿は、佐久平駅前の東横インである。長野新幹線の駅にはなっているが、あまりパッとしない駅前だ。特に、ホテル周辺には何もない。反対側にはイオンがあり、食べ物屋も数件あるが、何であれ決して繁華な感じではない。まだマスターが佐久にいた頃、こちらへ遊びに来た際、そのイオンの中でマスターが迎えに来てくれるのを待っていたことがある。それがいつのことだったか、記憶が定かでない部分がある。葛尾城を落とした2005年の鉄道の日記念旅のことだったか、前述した上田城攻めの時のことだったか。記憶が定かではないが、マスターズ家に一泊し、翌日は車で和田峠を越え、塩尻まで送ってもらった記憶もあるから鉄道旅の時のことであるのは間違いなさそうだ。

 その辺りの記憶は定かではないながら、駅周辺がその頃から大して発展していないことだけは何となく分かった。先ほど通り過ぎてきた北中込駅前も同様である。

 夕食は、コンビニすら近くになかったため、駅の反対側にあった蕎麦屋に入った。夏の旅行の時に入った長野駅前の油やは、そばも天ぷらもまずまず旨かったのだが、量がお上品だった。同じ長野駅近くにある高山亭と比べてしまうためにそのように感じるのかもしれないが、今回はその教訓を活かし、くるみそばの量多め、中盛と言うのを頼んだ。普通のそばつゆに、ペースト状に和えられた胡桃を溶かして食べるのだけれど、胡桃の風味が良く利いたそれは、ほんのり甘く、なかなか美味だった。






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