名家落日

 二日目最後の目的地となったのが、恵林寺と同じ甲州市内にある景徳院だ。同じ甲州市内とは言うが、一昔前までは大和村と言われた山間部だ。織田徳川連合軍の甲斐侵攻に至って、小山田信茂の岩殿山城を目指し落ち延びていった武田勝頼は、土壇場の笹子峠で信茂の謀反に遭い、嫡子信勝や夫人ともども、天目山中の田野で自害し、戦国大名武田氏は滅亡した。景徳院は、その最期の地に、徳川家康によって建立された。

 駅としては甲斐大和駅が最寄となる。例によって、景徳院までは歩けない距離ではない。が、決して近くもない。片道30分程度は歩くことになる。昨日の志賀城攻めに始まり、今日の獅子吼城攻めと来て、それなりに疲れが溜まっている中、30分の歩きは辛い。それでも、武田氏滅亡の地を見たいの一念で、黄昏の山間を歩く。秋の日は、山の向こうに沈もうとしていた。

 途中、武田氏最後の戦場となった鳥居畑古戦場の石碑を見つける。古戦場跡とは言うものの、道沿いに石碑が立っているだけである。この場所まで勝頼に付き従ってきたのは、非戦闘員も含めてせいぜい百人といったところだろうが、そうした中で下士卒たちは、主が最期の儀式を迎える時間を稼ぐため、攻め寄せてくる敵と戦った。それがこの古戦場である。彼らが戦った敵というのが、本来の敵であった織田・徳川軍なのか、裏切った小山田の兵なのかは、確実なところが分かっていないはずなのだが、現地の看板は、まるで織田や徳川の兵を相手に戦ったかのような論調で書かれている。小山田信茂の裏切りについては言及されていない。山向こうの大月は、小山田領だった地だが、その地元感情に配慮して、ある種のミスリードをしようとしているのかもしれない。

 景徳院は、古戦場の石碑からすぐのところにあった。寺院の向かい側には公共の駐車場もある。訪れる人も少ない物寂しい場所を想像していたのだが、それよりはオープンな雰囲気である。幾分かは観光ずれした印象も否めない。もっとも、駐車場の傍らにあるレリーフは、遠目にもこの地が伝える悲劇の歴史をモチーフにしていることが見て取れた。勝頼夫人に付き従った侍女たちが死を選んだその場所は、姫が淵と呼ばれているのだと言う。その説明を目にしたところで、この地が想像に違わぬ悲劇の場所であることを再認識した。

 景徳院の境内に入る。文化財としての価値があるのは、その入口にある現存山門なのだが、今の私にとってそれはさほどの意味を持たない。

 まず目に付いたのが本堂目の前にある一本の松だ。松にしてはずいぶんまっすぐに伸びたそれは、「旗竪松」と呼ばれており、信勝の環甲の儀、すなはち重代の家宝である楯無鎧を身につける儀式を行った場所なのだと言う。家宝の鎧を身につける行為には、武田氏の嫡子が正統の世継ぎであることを知らしめる意味があったといわれ、代々の当主たちは友好関係にある近隣の有力大名や、公卿たちを前に儀式を行ったと伝わるが、信勝の場合は最期まで付き従ったわずかの家臣に見守られての式典となった。現地の解説板類にはそこまでの説明はないが、あまりにも物悲しい。

 さらに悲しいのが、そこからさほども離れていないところにある信勝の生害石だ。つまりは切腹をした場所である。これらの遺物がクローズアップされていることから分かるように、一般に信勝は武田氏最後の当主であるとされている。対して、その父親である勝頼は、信玄の正統な後継者ではなく、信勝が成人するまでの後見人として家督を代行する役割を負ったに過ぎないとする見方もある。

 そうした勝頼の身の上にも悲劇性が付きまとうが、勝頼と夫人である北条氏、そして信勝の墓は、寺の建物の裏手に、勝頼のものを中央に、三基並んで立っている。歴史を経て、かなり傷んではいるが、元来が立派な造作のもので、土地の人や後にこの地にやってきた為政者の崇敬を集めたらしいことがうかがえるのは、せめてもの救いか。

 武田氏終焉の地に立った。何とも言えない余韻に浸りながら、景徳院を跡にする。駅からの歩きは、決して楽ではなかったが、ここに来ることができて良かった。

 帰路、甲斐大和駅の裏手にあった勝頼像を見た。古いものではない。偉大な父を持った不肖の子のように言われてきた武将ではあるが、ここ田野の地では、決してそうではないようだった。






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