光秀の旧跡を訪ねて

 明日は惰眠を貪るぞと、堅く心に誓って眠りに付いたが、明くる朝はたまたま私が仕事をしていないだけで、祝日でもなんでもない、普通の月曜日だった。サラリーマンが仮宿にしているケースも多いオールナイトサウナの類においては、彼らが寝過ごすことのないように、当然の如くモーニングコール代わりの館内放送を行っている。時刻は7時30分。仮眠室にも大音量で起床を促す放送が流れたので目が覚めてしまった。もう一度眠る気にもならなかったので、仕方なく朝湯を使い、店を出た。活動を始めるには少し早い時間帯なので、だらだらと朝食を食べ、近場のカフェで時間を潰してから行動を開始する。時に9時30分。最初の目的地は、本能寺だ。現在では京都市役所の向かいにあるが、織田信長が討たれた当時は、少し離れた蛸薬師通りの辺りにあった。もっとも、こちらは現時点において既訪で、今では老人ホームになっていた。

 と言うわけで、本能寺の変の舞台となった寺としてあまりにも有名な本能寺である。変当時の寺の造りとしては、近世平城の水準とは比ぶくもないが、堀を穿ち、そこから出た土を盛った掻き揚げ土塁を備え、中世領主の館並み・小規模な平城程度の防御能力は備えていたとも言う。

 もっとも、そういう寺だったのは前述の通り以前の場所にあったころの話で、現在は市役所の向かい側に、別の意味で堂々たる姿を誇っている。寺院自体は最近の寺と言う感じなのだが、併設?の宿泊施設がおよそ寺とは思えない立派さである。時間が来れば寺の所蔵品など拝観できるようだが、今回はその時間にも早い。三条の「ヤサ」から近いことを考えれば、いつでも来られるだろう。今回は門前を訪ねただけにし、公の首、公の胴、公の御霊と巡る光秀ツアーの起点として立ち寄るに留める。

 三条通りまで下り、鴨川を三条大橋で渡る。すぐにあるのが地下鉄の三条京阪駅だが、東山駅はそれよりもさらに一区東側の駅である。もっとも、都市部の地下鉄の話なので、歩いたとしてもさほどの距離ではない。

 今回訪ねる光秀の首塚は東山駅のすぐ東側を流れる白川の左岸を少しばかり下ったところにあるらしい。昨日来、本とウェブ地図を首っ引きで比べて調べて見た感じだと、表通りから細い路地に入り込んだ場所のようだ。目印となるのは餅寅という和菓子屋のようだが、これはすぐに見つかった。同店で売っているお菓子の名前なのか、墨痕鮮やかな「光秀饅頭」という文字が、一瞬「光秀の頭」と言う直截的な表現で首塚の所在を示す案内に見えギョッとしたが、場所的には本当にこの店のすぐ近くである。

 首塚とは言うが、京都の街中にあるものなので、史跡として仰々しく整備されてはいない。小さなお社があり、それが光秀の霊を慰める物であると、控えめに説明されているだけだ。あまり物見遊山気分で訪れるような雰囲気の場所ではないように思われ、少しお詫びの気持ちで賽銭を納めてお参りし、その場を後にした。

 地下鉄東西線は、東山の丘陵地を越えて山科に入るまでは、その名の通り京都の市域を東西に横切っているが、その先は南下し、醍醐方面へ進む。次なる目的地となる小栗栖は、明智光秀最期の地としてよく知られる地名だが、それもこちら方面にある。ちなみに、どこで間違って覚えたのかは定かではないが、現地を訪ねるまでずっとこの地名の読み方は「おぐるす」だと思っていた。地元での表記は「おぐりす」となっている。ネットで調べると、「おぐるす」という言い回しが全くないわけではなさそうだ。

 光秀の胴塚は、小野駅で下車後、山科側を渡った先の幹線道路沿いにある。地図上そのように表記されていたし、結果的にもその通りだったのだが、胴塚もまた、ひっそりと目立たず存在しており、とある店舗の店先にあった。そのため、なかなか現地にたどり着けず、周辺の道をうろうろする羽目になってしまった。こちらは、首塚と違って、祠が立っているとかではなく碑があるだけなので、信心や慰霊の心が乏しくとも、良心の呵責にさいなまれるようなこともなかった。

 続いて、近くにあるはずの明智藪を訪ねる。こちらは、光秀が土民に竹槍で討たれたと言うまさにその場所である。もう10年ほども前になるのだろうか、車でこの地にやってきた時に探したことがあったが、あまりにマイナーなスポットなのでついに見つけることが出来なかった。

 10年経っても事情は変わらず、こちらも容易には見つけられない場所だった。結論から言えば、今回もたどり着くことは出来なかった。後になって調べてみれば、今度は細い路地の入り組んだ住宅地の一角、ともすれば物陰となる民家の庭先に碑が存在していたらしい。一応現地近くに道標はあったので、ほんの数mのところまで肉薄していたのだが、ついに見つけられなかった。多分自動車向けの看板だったのだろうが、進入禁止の表示もあったし。ただ、いずれにせよ車で入っていくには辛い路地なので、車での訪問を考えたら少し離れたどこかに車を置き、最後は徒歩で近づくよりないのだが、適当な駐車場所もないと思われる。

 まあ、碑のある場所が実際に光秀の落命した場所であるはずがない。おおよそこの辺が光秀最後の場所であると教えてくれているだけのものなので、そこまで拘泥する必要もない。ただ、21世紀を迎えた現場周辺は、背後に丘陵を背負う傾斜地で、少し離れたところまで森も迫っているのだけれど、宅地化はすっかり進んでおり、敗戦後に自城を目指して光秀が落ちて行った間道という雰囲気はない。






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