肥前の熊

 最終日の大目標は、九州北部のペンディング城となっている久留米城・柳川城を取ると共に、比較的最近になって攻略目標に数えるようになった須古城を訪ねるところにある。訪問順で言えば、佐賀と長崎の境近くにある須古城を取った後、久留米や柳川に戻る形になる。

 須古城は、龍造寺隆信の晩年の居城として知られる。あるいは隠居城と言ったほうが的確なのかもしれないが、平井氏が築いたこの城を奪った隆信は、この城を居所と定めた。隠居城とは言いながら、年来島原半島の支配者であった有馬氏の押さえとなるため、自ら前線に近いこの場所に入ったと見るべきだろう。事実、一度は龍造寺氏に服属した有馬氏も、後年になると再び反旗を翻している。とどのつまりは、この有馬氏戦線に薩摩の島津氏が介入し、両氏の連合軍を相手とした沖田畷の戦いで、隆信は自らの命を落とすこととなった。

 須古城の最寄り駅となる肥前白石駅は、有明海に面する広大な平地の只中に位置する駅だ。その歴史は定かではないが、場所が場所であるだけに、これだけの平地の多くの部分が、干拓により生み出されたものなのかもしれない。駅周辺には民家などもあるが、少し離れると一面の農地である。

 須古城は、あたかもその様子をを見下ろすが如く、平地の西の縁の独立丘上に築かれた平山城だった。往時には、もっと海岸線に近かったのかもしれない。駅にたどり着いたのが、昨日のケースからも分かるとおり、まだ夜明け前の午前6時。典型的な田舎であるために街灯もほとんどなく、地理不案内の中、4km近く離れた須古城まで歩くのには不安が伴ったが、それでも歩かなければどうしようもなかった。

 歩くことおよそ1時間、午前7時を過ぎて、須古集落にたどり着いた。平地の中の丘であるため、ある程度辺りが明るくなってくれば、すぐにその姿を視認することは出来たが、問題は7時を過ぎて現地に着いても、周囲の明るさが十分でないことである。あたりがまだ薄暗い中、須古小学校の裏山と言って差し支えない丘の上に登りはしたが、暗がりの遺構などはまともに写真に写らない。丘の上がかなり大規模にならされているのを除けば、全般に遺構はそれほど明瞭ではなく、保存されている箇所も多くはない。小学校反対側の斜面には石垣の成れの果てが存在しているが、これがこの城の最も顕著な痕跡であろう。

 須古城から肥前白石駅までの道のりは、水田地帯の只中の県道であるだけに、ひたすらにまっすぐで迷子になりようもないのだが、距離の長さが少々億劫だ。途中、自転車に乗った女子高生か女子中学生かに挨拶をされたが、昨日のパターンと同様、とっさに反応ができなかった。都市部で暮らす人間は、こういうところが良くないのかもしれない。

 もともと予定していたのよりは幾分か早く、8時半過ぎには肥前白石駅を離脱。次に目指すのは柳川城だが、水郷として知名度の高い柳川市は、前々から漠然と抱いていたイメージと違い、九州西部の中軸路線となる鹿児島本線の経路からは外れたところに位置しており、鉄道のみで移動すると、最後は西鉄天神大牟田線に拠らなければならない。JR線との接続を考えると、大牟田まで行って引き返す形にならざるを得ない。さもなくば、博多駅まで行き、地下鉄を乗り継ぎ、天神から大牟田線に入るか。実は、地理不案内の悲しさで、久留米市内でJRと西鉄の駅がもっとも近接しており、ここでの乗換えと言う手も考えられなくもなかったのだが、そこに気づいたのは柳川を去る段になってのことだった。ただ、久留米市内の二つの駅は、距離にして2km程度は離れているので、ターミナル駅での乗り換えのような接続はできない。

 自動車交通を使えば、佐賀市内からでも知れている肥前白石から柳川への移動には、都合2時間あまりを要した。西鉄の柳川駅に到着したのが11時。駅から柳川城後までは、やはり片道で2km以上の距離がある。歩けば30分以上。駅を出てすぐのところには、水郷としての柳川の顔をよく表す船着場があり、ものめずらしさから眺めていたが、ここから城跡までが長かった。観光都市・柳川はまた、北原白秋生誕地としての性格もまた色濃く、そうした事物を眺めながら城まで歩いた。

 柳川城は、もともと蒲池氏により築かれた物だと言う。戦国末期、と言うより安土桃山時代のこの地域で龍造寺隆信が勢力を伸ばしたことは前述したが、そんな隆信も若年の頃は領国を追われて辛酸を舐める思いを味わっており、地理的に肥前に近かったこともあって、一度はこの城に身を寄せていたことがあると伝えられている。柳川築城当時の蒲池氏は、すでに大友氏の麾下に組み入れられていたが、当時の龍造寺氏は、豊後から筑後にまたがる地域を領有する太守・大友氏にしてみれば、一地方領主程度の存在に過ぎず、脅威と言うほどの存在ではなかったため、庇護して自勢力の影響下に置こうと言う意図があったのかもしれない。が、龍造寺氏が急速に台頭し、大友氏と比肩し得る勢力となると、柳川城はその来攻を受けたこともある。平城ながら、多くの掘割によろわれた柳川城は、堅固な守りを誇ったと言われ、後に柳川城が龍造寺方に奪われると、今度は旧主・大友氏を持ってしても抜くことのできない難攻不落の城となった。要するに、現在も残る掘割の原型が作られたのが、柳川城の城下町成立と時期を同じくしており、利水目的の物であると同時に、当初は軍事上も有効に機能していたと言うことになる。近世になると、紆余曲折を経ながら大友氏の重臣から独立大名へと転身を果たしていた立花氏の居城となる。以後は、柳川藩十万石の政庁として、藩政期を通じて立花氏の城であり続けた。

 掘割は現在も柳川市の観光資源として活用されているが、そうした中、柳川城跡は、柳城中学校校庭の片隅にひっそりと天守台を残すだけだった。なお、失われた天守は五重五階を誇ったと言われている。十万石の大名の城にしては規模が大きいが、立花氏が関ヶ原の戦い後に柳川城を失っていた一時期に城主だった田中氏が三十余万石の大名であったため、その際に建てられたものなのだろう。






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