福井の外れに戦国を見た

 福井駅もまた金沢駅と同じく、最近になって面目を新たにしたらしい。いや、上っ面を改修した金沢駅とは違い、かなり大々的な改築が行われていた。何かと障りのある表現であるのを承知で言えば、以前の駅舎は「裏日本」の悲しさを端的に物語るかのような侘しい物だったのだけれど、久しぶりに来てみるとホームが高架化し、近代的なビルを備えた一県の県都の玄関口に相応しい造りの駅になっていた。

 駅の大改築に伴って、駅周辺の街並も再開発の波に洗われている最中だったらしい。とにかく「工事中」のバリケードと目隠しばかりが目に付く。今から15、6年ばかり前に来た時には先代の駅舎同様に街も昭和40〜50年代の面影を残していたのだけれど、新たに生まれ変わる福井駅周辺地区は若者受けする街並になりそうである。この傾向は私が金沢で暮らしていた時期からすでに始まっていたようで、福井はその頃から「福井にあって金沢にないもの」を模索しながらの街つくりを進めていた節がある。「北陸最大の都市」と気を吐く金沢は、北陸三県にあってはごく無難に都市化を進めて来た街で、ために街並が優等生的で面白味にかける弱みはあるのだ。富山市なり福井市なりは、そこを承知の上で金沢との差別化を図っているのだろう。

 福井駅着は8:30。乗り換えの越美北線(九頭竜線)は9:02にこの駅を出る。30分という「帯に短し」の時間が福井駅での自由時間になる。この空き時間には、北ノ庄城址や福井城址を巡る腹積もりでいた。どちらも駅からは至近の距離で、特別見応えのある遺構が残されているわけではない。30分ほどもあれば行って帰ってくることはできる。予定では福井駅にはもう一度戻ってくることになっており、どの道その時にも30分ほどの乗り継ぎ待ちが発生するため、まずは北ノ庄城を見ておくことにした。柴田勝家の居城跡である。先ほど少しふれた15年前の福井旅行で見た時には、勝家を祭った柴田神社と勝家その人をかたどった像が立っているだけの非常に地味な城跡だったような気がするが、今回再訪してみると、資料館らしきものが併設されていたり発掘された石垣が保存されていたりと、小さいながら公園としての体裁を整えている。大河ドラマ・トシマツの時に整備されたのだろうか。

 思惑通り、北ノ庄城址まで行って帰ってきたら、乗り換え予定の列車が福井駅のホームにやって来ていた。電光表示にいざなわれてたどり着いたホームに待っていたのは、予想通りのワンマン列車だった。多分2両編成だったと思う。車に乗り込んでしばらく待っていると、やがて列車はのんびりとした足取りで動き始めた。駅から駅への距離は短く、駅を出てスピードが乗ってくる頃には次の駅についている。越美北線は典型的ローカル線である。

 途中の車内で、代行バスについてのアナウンスが始まった。一乗谷駅よりも先に進みたい人は、途中の駅で電車を降りてバスに乗り換えろということらしい。私の目的地はまさにその一乗谷駅。一乗谷に行きたい人間は普通に電車に乗り続けていれば良いはずなのだが、どうも心配になってきた。実際に観光客の間違いが多いのか、車掌さんが一見っぽい客に行き先を聞いて回っていた。私も一応は一乗谷まで生きたい旨を伝えたのだが、それならばどうやら途中の駅で電車を降りることなく最後まで乗り続けていれば良いらしい。

 一乗谷は福井市郊外にある小さな駅だ。列車はここまで来て福井駅に引き返していく。福井駅から一乗谷までの距離は所詮その程度のものでしかなく、この短い区間だけに注目するとまるで路面電車のように見える。実はこれには裏事情がある。昨年2004年、福井地方を集中豪雨が襲い、山間部では交通網の寸断など大きな被害を被った。これが私にもまるっきり無関係の話ではなくて、以前から常々走りたいと思っていた中部地方屈指の「酷道」、国道157号線が路面崩落により通行止めの憂き目にあったりしている。そして157号線の例に類する激甚災害の被害を受けたのが、越美北線なのである。一乗谷駅近隣の篤志家が無償で提供してくれているらしい自転車に乗って駅近くを走っていて、見るも無残に脱落した鉄橋を発見した。あのときの災害は多くの人から多くのものを奪っていったのだ。私がさっきまで乗っていた越美北線は、本来ならばここにかかっていたであろう鉄橋を渡り、その通称どおり九頭竜湖まで走り抜く路線なのである。しかし、橋梁部分を失い橋脚を残すのみとなった鉄橋跡の様子を見る限り、当分の間は橋が再建されることは無いような気がする。否、むしろ越美北線はこのまま廃線にされるのではないかとさえ思えてしまう(なお、越美の「美」は美濃の「美」で、計画段階では岐阜まで走る路線となるはずだった。岐阜側から敷設を進めていた越美南線は、現在では第3セクターの長良川鉄道によって運営されているが、2本の路線はついに接続することがなかった)。

 さて、私が一乗谷にやってきたのは他でもなくこの地にある戦国遺跡・朝倉氏居館跡を見学するためである。駅から少々距離はあるのだけれど、一乗谷駅に無料自転車が設置されているおかげでアクセスにはまことに都合が良い。この自転車、駅ホーム下の自転車置き場のようなところに無造作に置いてある。「乗りたければ誰に断る必要もないので勝手にどうぞ。ただし元には戻しておいてね」と言わんばかりのぶっきらぼうさである。あまりにぶっきらぼうなので最初はスルーしてしまった程だ。電車で一乗谷館跡に行こうと考えている人は有効に使うと良い。大変ありがたい。前述の通り、金は要らない。

 その一乗谷館跡なのだけれど、「お城スコープ」のネタ収集のためにやって来た。これまた十年以上も前に一度来たことはあったのだが、そのときの記憶はあまりはっきりしていない。戦国の城下町らしきものが復元されているのを見た記憶はあるのだが、それがどの程度のものだったのかについては非常に朧である。観光ガイドなどを見ているとそれなりに見られそうな写真写りにはなっているが、まああまり期待はせずに行ってみようかぐらいに思っていた。しかし、良い意味でその思いは裏切られたと思う。

 城下町は、かすかに覚えていたのよりは若干規模が小さかったのだが、質的にはかなりのものである。全国広しと言えども戦国時代の風情が街並レベルで再現されている場所は非常に少ない。各地には「戦国時代村」などと銘打ったテーマパークも存在しているが、あれは実質的には時代劇村であって、街並はほぼ江戸時代のそれと思ってしまって良い。一乗谷の街並も模造品といえば模造品なのだけれど、その硬派なスタンスは世の凡百の戦国時代村とはまったく違う。土壁で仕切られた街区の中には、同じく土壁板葺き(ちなみに板葺き民家が建ち並ぶ街並は、戦国時代の水準で言えば大都会のそれだ)の古い日本家屋が並んでいて、通りを歩く観光客の姿以外に「現代」を連想させるものが少しも見当たらない。まさに戦国ワンダーランド。

 さらに一乗谷館跡の場合、伊達に「戦国遺跡」を名乗ってはいない。今を去ること500年ほども前に、当時の日本でも指折りの大勢力を誇っていた戦国大名朝倉氏が築き上げた雅な居館の遺構も発掘されており、それを見学できる。さらに発掘作業は現在進行形で行われていて、その様子を見学することもできる。いやはや、今回の2日がかりの旅の最後にいい物を見せてもらった。晴れやかな気持ちで少し早めに一乗谷の駅へと向かった。駅へと続く緩やかな下り坂の両側には緑萌える山並みが迫る。日本の夏って良いよね。普段ならクソ暑いだけの8月の日差しに対しても、非常に寛容な気持ちになれていたような気がする。






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