天災の爪跡

 上大沢へ向う途中で、雨が降り始めた。ここまで日差しは強くなかったもののうす曇程度だったのが、ここに来て急な天候の悪化である。ただでさえ険しい道のりが、一層の険路と化す。もしスリップなどしたら何十メートルか下の岩場にまっさかさまである。そんな道が20分ほども続く。アクセスの容易さで言えば、輪島よりは門前との結びつきが強い場所なのかもしれない。そうしてたどり着いた上大沢の集落には、テレビで何度か見かけたことのある間垣の集落が、冬場のものと言うイメージがあったのだが、晩夏の今も、間違いなく存在していた。海辺の家は家屋そのもののつくりは現代風になっているが、昔風の防風柵はおそらく、何百年も昔から変わっていないのだろう。基本的には観光地でないので遠くから眺める程度にしておいた方が良いだろうが、それにしても「日本にまだこんなところがあったんだ」と思わずにはいられない。ステレオタイプに過ぎる感想で、そこに現住している人の顰蹙を買いそうだと自覚していても、である。なお、前述の通り間垣は能登半島の海岸部にはしばしば見られるもので、上大沢よりもアクセスの容易な珠洲市の漁村部にも部分的には存在する。輪島の中心部から見た場合、時国家や揚げ浜塩田などを経由して禄剛崎に向う途中にもちらほらとあったような気がするので、普通の観光にはそちらのものを見た方が簡単かもしれない。

 ともあれ、間垣の里は滞在してどうという場所でもないので、海に面した集落の外れから様子を眺めて次なる目的地・門前の総持寺へと向う。旧門前町は現在、平成の大合併により輪島市門前地区となっているが、そもそも何の門前なのかと言えば、総持寺の門前である。なお現在門前町にあるのは祖院で、曹洞宗大本山の主要機能は横浜の方に移っている。この界隈は何度か来たことがあるのだが、総持寺祖院はついぞ訪れた事がなかった。上大沢の裏山奥、行きかう車も少ない細道を「門前」と書かれた小さな案内板を頼りに南下する。何もない道を30分ほど走ると門前の中心部にたどり着き、道路標識に導かれるまま総持寺へ。

 総持寺は700年近い歴史を誇る古刹だが、比較的近年では二度、大きな災害に遭っていると言って良いだろう。一回は明治の大火。これがきっかけとなって大本山の機能は能登から横浜へと移っていった。そして平成19年(2007年)能登半島地震により、今また大きな被害を受けていた。白壁は剥がれ落ち、ゆがんだ屋根の上からは瓦が幾枚も脱落している。否、建物自体が前のめりに傾いているのだ。復興の見通しはまだ立っていないらしく、倒壊の危険がある建物には立ち入り禁止の札が。建物ばかりでなく、堂内に安置されていた木像も、地震の時に床に叩きつけられるなどしたのだろう、指が欠け折れていたりしていた。真に痛々しい限りである。総持寺では、皮肉にも地震の傷跡ばかりが目に付いてしまった。総持寺に限らず、門前地区はこの地震でもっとも大きな被害を受けた地域であり、地盤の緩い高台地区の家は大きくかしいだものか、ブルーシートをかけられたままになっているのが目に付いた。






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