四分の一殿の街

 今日始めて高知にやってきた人間とは思えないマニアックなルーティングで高知市街地へと帰還する。高知春野線を使うと市街地でも比較的に西の方に出てしまうらしいが、駅の方まで戻るのはそれほど難しい相談ではなさそうだ。峠道を下り降りる時にも、高知城の姿を望む事ができた。高知城が建っている大高坂山は標高44メートルの小高い丘である。大きなビルも少ない高知市中心部にあっては、その頂に建つ城の姿を見つけるのはそれほど難しくはない。

 高知城周辺では、2006年大河ドラマ「功名が辻」にちなんだ「土佐二十四万石博」が開催されていた。たまたまこの日が「二十四万石博」の開幕日だったらしい(会期は2006年4月1日〜2007年1月8日)。数年前の「利家とまつ」の時の金沢では「加賀百万石博」が行われたが、それにあやかった博覧会名なのだろうか。なまじ名前が似ているだけに、「金沢の約4分の1だなあ」と気の毒な関心をしてしまう。応仁の乱を引き起こした山名持豊(宗全)の一族は、日本全国66ヶ国のうちの11ヶ国の守護職に叙任された権勢の大きさから「六分の一殿」と呼ばれたが、よく似た名前の山内一豊は加賀前田の「四分の一殿」というわけだ。それにしても「地名+石高+博」という構成はそれほど一般的なものとも思えず、たまたま二つが似てしまったという話ではないような気がする。もしかして背後でNHKが糸を引いているのではあるまいか。

 丸亀城訪問の時にも触れたが、四国にはわずか4県という狭い範囲であるにもかかわらず、創建当時の天守閣を残す城が3つもある。これまた繰り返しになるが丸亀城、松山城、そして高知城である。山内一豊がその生涯をかけて上り詰めた出世街道(それほど派手なものではないのだけれど)の集大成が、ここ高知城であった。一豊は関ヶ原の戦いでうまい事をやって土佐二十四万石を手に入れたのである。一方、同じ関ヶ原で下手を打って土佐を失ったのが長宗我部氏だったから、旧領主を慕う土着武士団と新領主の間ではわだかまりもあっただろう。一豊は「一両具足」と呼ばれた長宗我部氏の旧臣に対して徹底して強圧的な姿勢で臨んだ。司馬遼太郎の何かの本だと思うのだが、東京から高知へ山内という姓の子がやってきて、地元の子にぶん殴られたというエピソードが載っていた。土佐人は龍馬は大好きだが山内の殿様はあまり好いていないというのは以前からよく言われていた。坂本龍馬は山内氏から虐げられた長宗我部系の武士・郷士の家の出であった。

 高知城の外見は土佐へと移封される前に住んでいた掛川城に似せて造られているという。二十四万石という山内氏の石高は、小名と呼ぶには大身だが、大大名というほどのこともない。天守閣の規模もそれに似せて、取り立てて言うほど巨大なものではなかった。その高知城の中では、長宗我部氏の恨みの歴史や山内氏による藩政、広く言えば高知県の歴史に関する展示も行われていた。印象的だったのが、高知では伝統的に行われていたというクジラ漁に関する展示だった。高知というとカツオ漁のイメージが強いのだけれど、地元民にしてみれば「カツオだけじゃなくてクジラもあるぜよ」ということなのか。クジラ漁師たちが仕留めたクジラを浜で解体する様子を再現したジオラマが展示されていたのだが、そのクジラ肉の旨そうだったこと。「クジラ肉=硬くて臭い」という頭があるのだけれど、そういう先入観などあっさり吹き飛ばしてしまうほどに旨そうに作られた肉だ。欧米による商業捕鯨禁止の風潮が強まる昨今、外国からの観光客に対して捕鯨王国土佐が意地を見せようとしているようにも見えた。

 城内の見学が終わったので、高知公園周辺を歩いてみる事にする。くだんの「二十四万石博」は、いわゆる万博のようにそれ自体が他から独立して開催されるものではなく、高知城界隈で各種イベントや展示、ショップなどを出す企画らしい。早い話がNHKの大河ドラマに協賛した商業祭りのような趣で、全ての催しが格別に「功名が辻」や土佐山内藩にちなんでいるわけではない。高知城周辺にはうどんやたこ焼きやアイスクリンを売る露店が出ている。一番らしかったのはやはりNHKの大河ドラマ館だったのだが、唯一見るべきものがありそうなこのパビリオンに限って有料だった。金を払って見るほどのものなのかどうか思案してみたが、どうもその価値はなさそうな気がしたので遠巻きに外見を見るだけにしておいた。なお、高知城の大手門前あたりには高知市の道路元票があったのでこれを記念撮影。

 かくして高知城観光は終了。時間はちょうど16時。困った事に、帰りの列車・京都行きムーンライト高知の発車時刻は22時58分。自由時間はたっぷり7時間はあるではないか。これは厳しい。九州行きの大阪発ムーンライト九州の時でも時間をつぶすのに悪戦苦闘したが、今回はさらに手ごわそうだ。さすがに大阪は時間をつぶせそうな場所が色々あったが、高知はずっと小さな街である。人口が33万人ほどらしいから、名古屋近郊で言うと合併ドーピングを行った一宮市よりも小さな街、春日井と同程度の規模という事になる。

 仕方がないのでレンタサイクルを返却し、高知城から駅にかけての地区をうろうろする事になった。駅は小さいので時間をつぶすには不向きだった。このエリアにはひろめ市場というマーケットがあり、地元の物産品を販売したり、いろいろな種類の飲食店がある。必ずしも観光客向けの施設ではなく、地元の人のレジャースポットという性格が強いらしいが、リーズナブルに土地の料理を食べさせてくれる店もある。今日の夕飯はこのあたりに落ち着くだろうか。近くのアーケードにも土佐料理の店(クジラが食べられるらしい)もあったが、少々値がはりそうである。ウインドウショッピングなどというしゃれたものではないが、とにかくアーケード周辺の店を物色して回る。

 そうしているうちにあたりにも夕闇が訪れた。そろそろ食事時である。けれども、一人旅のわびしさで、観光客や高知市民でにぎわう盛り場の飯屋にはなかなか入れるものではない。不思議な事に、洒落た店・小粋な店に入れないとなると吉野家や王将といったチープでジャンクな趣の店で食事を取りたくなってくる。そこで今度は吉野家・王将を求めて高知市内をさまよい始めたが、意外と見つからないものだ。時間ばかりが無駄に過ぎていく。まあ時間は有り余るほどあるのでそれはそれえ良い。途中でカレーのCoCo壱番は見つけたのだが、ココイチなど名古屋フードの最たるものではないか。高知まで来てココイチのカレーを食べようという気にもならない。なら吉野家や王将はどうなんだと言われれば返す言葉もないのだが、とにかくココイチは無視。そうすると、食べる店が見つからない。結局、高知駅にあるラーメン屋で、ラーメンのほかチャーハンやらギョーザやらが付いてくるセットを食べる事になった。嗚呼、この安っぽさこそ18きっぷ旅よ。

 店を出て、広くもない高知駅のコンコース内にあるベンチに腰掛ける。高知の夜は早いのか、それともひろめ市場他の盛り場周辺が賑わっているのか定かではないが、とにかく駅の人通りが少ない事だけは確かだった。特に大人が目立たない。近くの町から高知市内へやってきたのか、中学生か高校生ぐらいの子供がホームへと急ぐ姿はわりあいと目に付く。やがて駅の売店がシャッターを下ろす時間になった。それでも私はベンチに座り続けていた。とにかく欲も得もなく疲れ果てていた。おそらく今私は生気を失った顔で構内を行き交う人たちを眺めているのだろう。まるで終戦直後に駅で死んでいった戦災孤児である。

 長い列車待ちの時間が過ぎていった。ようやくムーンライトに乗り込んだ時、車外にそぼ降る霧のような雨に気が付いた。観光案内所のおじさんが言っていた雨は今になってようやく降り始めたのだ。おじさんと話をしていたのは12時間ほど前の話のはずだが、もっとずっと前のことのようにも思えてくる。ほとほと草臥れ果てていた私は、いつのまにか眠りに落ちていた。次に目覚めたのが真夜中の阿波池田駅。その次は姫路駅だった。姫路では、播但線に乗り換えて竹田方面を目指そうかとも思ったが、今回はとにかく疲労が極限に達していたのでそのままおとなしく大阪までムーンライトに乗り続け、大阪からまっすぐホームタウン名古屋を目指して、この四国行きの旅は終わったのだった。






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