金剛界へ

 翌朝、7時を過ぎた頃に再び地下鉄御堂筋線に乗り込み、もう一度大阪駅に接続する梅田駅を目指す。今日の最終目的地は高野山なのだが、高野山には南海電鉄で行かなければならない。で、乗り継ぎを調べてみたところ、新今宮から南海電鉄に乗るのが大阪ビギナーの私にとっては最も分かりやすそうだった。新今宮までの移動にはJRだと都合が良さそうだ。そういう理由からの行動なのだが、普通に心斎橋から南海電鉄の駅を目指そうと言うなら、上に挙げたようなルートは明らかに回り道である。否、回り道と言うより、無駄な折り返しと言った方が正しい。

 それはともかく、新今宮の駅に着く頃には夜も白々と明け始めていた。ここで高野山駅までのきっぷを買う。途中の橋本で最初の乗り換え、さらに極楽橋でケーブルカーに乗り換えて高野山の山上に登ると言う、およそ2時間の道のりだ。昨夜はいまいち寝つきが良くなかったので、朝一番から眠くてしょうがない。何度か舟をこぎながら、夢うつつの状態で高野山を目指す。この路線自体は以前に乗ったことがあるような気がするのだが、それがいつの話だったか思い出せないのは、頭が眠っているせいばかりではあるまい。千早城に出かけたときだったか、岸和田城を目指したときだったか。いまだに大阪近郊の地理は良く分からない。

 この日は奇しくもクリスマスだったのだけれど、橋本に着く頃には風に吹かれて雪が舞い始め、あわやホワイトクリスマスかと言う状態になっていた。ロマンチックで良い、などと言う話ではない。あまりに降雪量が多いと、高野山上での移動に支障をきたしかねない。それ以前に、こんな辺鄙なところで交通障害が発生すると、大阪まで戻るのさえ一苦労になる。そんなことを心配していたが、橋本駅での乗換えを済ます頃には、雪もどうやら止んでいた。

 列車は途中、真田親子の蟄居地となった九度山などを走り抜けながら、ぐんぐん高度を上げていく。車上の人となっているとあまり実感がないのだが、かなりハイペースで高度を稼ぐ路線だ。しかしそこはそれ、普通の鉄道車両である。極楽橋まで進むと、その先は見上げるような急斜面となっており、さすがにそこが限界となる。駅名の由来と思われる、赤い欄干の小さな橋を横目に見ながら、次なる足へと乗り換え。大阪から2時間の旅のラスト5分間は、鋼索線、すなはち高野山ケーブルで330mの高度差を一気に登り切る。

 高野山駅に降り立つ。橋本駅で暫時極楽橋行きの列車を待つ時もかなり冷え込んでいたが、高野山の上は正に凍てつく寒さだ。幸い駅前のターミナルには高野山奥之院行きのバスが停車していたので、寒気から逃げるようにしてバスに乗り込んだ。

 私はこの高野山と言う場所を、これと言う予備知識もないまま訪れることになった。もともと関心はあった。とは言え、平安前期に弘法大師空海によって開山されたこと、「高野山」と言う山は存在しないことを知っている程度の知識である。わりと長じるまで、「高野連」というのが高野山のお坊さんの組合だと勘違いしていたこともあったが、これはあさっての方向に関心が向かった結果である。

 ともあれ、俗な観光地ではないので、事前に手ごろなガイドブックの類が入手できていなかった。高野山駅に到着するに至り、ようやく現地観光のパンフレットを入手したのだが、それにしても、まず駅から本日究極の目的地である奥之院までの距離感がつかめない。やがて、バスはのんびりとしたペースで走り出した。走り始めは曲がりくねった雪道と言うこともあり、一向に速度は上がらないが、車中では高野山の概要について放送が流れている。曰く、「高野山は山上に現出した一大宗教都市である」。同様の言い回しは何度か耳にしたことがある。

 高野山駅を出て最初の停留所であり、信仰の地としての高野山の入口と言える女人高野まで、意外と長い時間バスに揺られることになったのも、規模の大きな仏教聖地を印象づけた。が、そこから先は、都市部の路線バスとさほど変わらぬ間隔で停留所が設置されており、比較的短時間で終点の奥之院前に到着した。

 バスを降りるとやっぱり寒いのだが、上を見上げると雲間から青空が覗いており、どうやら天気の大崩はなさそうだ。

 私が高野山奥之院に足を運ぶことになった最大の目的は、この地にある名だたる戦国武将たちの墓に詣でることにあった。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、その他戦国の世に勇名を馳せた武将の末裔たる各大名家の墓所が、奥之院の境内には無数とも言えるほどに存在している。

 とは言え、まずは高野山の最奥にして聖域の中の聖域と言える弘法大師御廟を目指し、そこから墓所の入口に向かって引き返す形で境内を見学することにする。最初に足を踏み入れた区画は、近現代の企業・団体の慰霊碑が立ち並ぶ場所だったが、国内の業種もさまざまな有名企業が、何らかの形で各分野の発展の礎となった人々の霊を慰めている墓が見られた。礎となった人々の範疇には、研究・開発などで顕著な功績を残した人や、不幸な事故で亡くなった人など、多くの人が含まれているらしかった。

 途中からは江戸時代以前の墓が立ち並ぶエリアに入った。ところどころには芭蕉の句碑などもある。ほどなく、豊臣秀吉や織田信長の墓に行き着く。彼らの墓は、御廟のすぐ手前と言う、非常に象徴的な場所に建立されている。特に既存仏教に対しては酷薄な政策で臨んだことで知られる信長の墓が、聖域の中枢部に近い場所に存在することは興味深い。

 「御廟橋」と呼ばれる小さな橋を渡ると、高野山の最奥部と言える弘法大師御廟は目と鼻の先である。これより奥は写真撮影が禁止されており、聖域のムードは否応なしに高まってくるが、単なる観光客であっても特に出入りが制限されているわけではない。後日、たまたまビートたけしがここを訪ねた様子がテレビ放映されており、その際特別に撮影許可が下りたことをいかにも仰々しく強調していたが、現地さえ訪問できれば自分の目で直接見ること自体は容易な施設なので、それほど秘密めいた場所ではない。むしろ安易に神秘主義が吹聴されることに違和感を覚えるような、ごく自然な信仰の場と言う気もする。

 薄暗い建物の中はしかし、屋外よりは随分と暖かく保たれると共に、赤々とした火が焚かれ、僧侶が座して何かの経文を唱えている。これぞ密教と言う光景である。この、日常接することのない音と光の世界が、玄妙な空気を生み出している。あまりの幽玄さゆえに、長居すると自分がこの世ならぬ世界に引き込まれそうな気がしてきたため、俗物の私はほどほどのところで建物を出た。

 一応弘法大師に挨拶を済ませたところで、本日のメインイベントと言える戦国武将の墓の探索に出る。最前、織田信長と豊臣秀吉のそれは目にしているので、この二基は目の前を素通りし、先へ進んでいくと加賀前田家の墓があった。藩祖利家の墓ではないが、外様の雄の墓らしく、周囲でも一際巨大な墓である。とりあえずこれを撮影したが、これを皮切りにしたように、毛利家や浅野家など、様々な大名家の墓が目に付きだした。その様たるや、正に「枚挙に暇なし」といった感じだ。墓石の規格がある程度統一されているのか、造形こそ大差はないが、本来ならその一々を写真に収めて行きたいところである。しかし、カメラのバッテリー残量が心もとない。仏様に貴賎優劣の順をつけるようで心苦しいが、有名どころを精選して撮影していかなければならない。結局ファインダーに納めたのは、数が多いため順不同で列挙していくと、個人で明智光秀、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信、榊原康政、結城秀康、石田三成、森忠政、河野道直、浅野内匠頭、大名家(一部団体含む)で黒田家、島津家、蜂須賀家、小田原北条家、赤穂四十七士などを撮影した。さらっと流すだけでこの調子なのだから、本当に大変な数である。一応、ガイドと言うか有名人の墓の配置を示した資料は高野山駅で入手していたのだけれど、上に挙げた十指にあまる程度の墓すべてが網羅されていたわけではない。それほど、高野山奥之院には歴史上の偉人の墓が多く存在しており、奥深い。これはまた、いつかこの地を再訪することになりそうだ。そんな予感を抱きながら、奥之院の森を後にした。

 往路のバスの中から見る限り、高野山界隈の様子は何となく分かった。次に目指すは歴史の教科書にも出て来た高野山金剛峰寺だ。おそらくは20分ほども歩けばたどり着く距離だろう。出来れば途中でお土産を、甘味か、特別好物と言うわけでもないが本場の高野豆腐や胡麻豆腐を手に入れておきたい。とは言うものの、ここ高野山は、意外に観光ずれしておらず、観光客向けの店も本格的には動いていない様子だ。今日は一応休日のはずなのだが。来週末には大晦日なので、新春に向けて力をためているのだろうか。

 森を出たあたりから降ったり止んだりを繰り返している雪は、降り積もるほど長くは続かなさそうだが、勢いだけはちょっとした吹雪の様相を呈してきている。ここ高野山の冬は、本当に厳しい。今回、寒さを警戒してユニクロ社のヒートテックを着込んできたため、胴回りはそれほど寒さを感じないのだが、まず手袋をはめているはずの手指が、次いで靴と靴下を履いているだけで普段と同じような状態の足がかじかんできた。足は寒冷蕁麻疹みたく痒くなってくるし、手はまともに動かなくなってくる。自販機で温かい飲み物を買おうにもまともに指が動かなくなる始末。

 体の末端から寒気に攻められるしんどさをひしひしと感じながら歩き続けるうちに、金剛峰寺に到着。正直言って、現地を訪ねるまでは京都や奈良の大伽藍のような、規模の大きな寺を想像していたのだけれど、真言宗の総本山でありながら、単体ではさほどの規模ではない。もちろん、周囲に固まって存在する如意輪寺や現在では宗教都市高野山の中心となっている壇上伽藍、部外者には宿坊の印象の方が強い寺院も合わせれば、かなりの広さを誇る寺院群と言えるのだが、いささか拍子抜けしたこともまた否めない。そして、ここ金剛峰寺に着いたところで、心配されていたデジカメのバッテリーが空になり、記録写真を残すことが出来なくなってしまった。

 もっとも、この頃になると高野山の再訪もまた、既定事項になっていた。何しろ「次は龍神村側から着てみよう」などというところまで目論んでいたのである。従って、今回に多くを求めるよりは、とりあえずこの寒さから逃れたいと言う気持ちが勝ってしまい、周辺の寺院の一通りをさらっと見学しただけで、ちょうどやって来た高野山駅行きの路線バスに乗り込んだ。

 山を降りると、最初は寒いと思っていた橋本辺りでも随分気温が高いような気がする。もちろん、昼を回ろうかと言う時間帯に差し掛かっていたこともあるが、やはり気候は穏やかだ。冬の高野山は、それはそれで味わいが深かったが、次は春か秋にでも来よう。そんなことを思いながら大阪への道のりを引き返し、そこから先はいつもの鉄路を名古屋まで走り抜けて、2010年冬の18きっぷ旅は終わりを迎えた。






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