海上の神殿

 厳島神社の神域として知られる宮島はその歴史を紐解くと、6世紀の末に現在と同じ場所に厳島神社が創建されたことに始まるのだそうだ。平安時代になると、先にも触れた弥山(みせん)が弘法大使空海によって開かれた。宮島は絶海の孤島ではない。むしろ廿日市あたりからは低いながらも切り立った峰の連なるそのシルエットが良く見える。なるほど言われて見れば確かに弥山の山容には密教的な雰囲気があるような気がしないでもない。島に渡った空海の気持ちも分かるような気がする。そして平安時代末、栄華を極めた平清盛ら平氏一門の信仰を集めた事で、厳島神社の偉名はいよいよ天下に知れ渡るようになった。以後は時々の権力者の庇護を受け、厳島信仰は広く浸透していった。世界遺産への登録は1996年12月の事で、広島の原爆ドームと同時期の事であった。

 厳島神社といえば、何といっても海の中に立つ朱色の大鳥居が有名だ。トリビアというにはいささか知れ渡りすぎているきらいもあるが、これは脚が地中から伸びているのではなくて鳥居それ自身の重みでそこに立っている。そして鳥居同様に、社殿もまた海に向かってせり出しており、満潮時には海上神殿の趣となる。それだけに建物の維持には多大な労力を必要とし、また台風の時などには大きな被害を受けやすい。ここ10年のうちでも、国宝級の建造物が台風被害で大きく破壊されたことがあった。

 繰り返しになるが、私が厳島神社を訪れたのは干潮時のことであった。社殿は海上に浮かんでいるような状態ではなく、はっきりと砂浜の上に立っていた。もう一つ趣にかける気がするが、何事にもタイミングというものがあり、これはこれで仕方がない。近くに居たツアーガイドの話に聞き耳を立てていると、午後8時ぐらいになれば潮が満ちるといが、さすがにそれまでは待てない。

 期待していたのより「らしさ」には欠けるものの、ここまで来て社殿を見ていかないという手はない。入場料300円也を払って朱塗りの柱が立ち並ぶ回廊へと進む。もともと機密性の高い建物ではなく、外からでも中の様子が丸見えになっているので高めの料金設定はしにくいのかもしれないが、なかなか見所のある施設のわりに、入場料が安くなっているような気がする。

 廊下部分は、意図的にそうしているものなのか、床板同士の間に少しずつ隙間が開いていて、その隙間から下の地面が覗いている。ちょっと安っぽくも見えてしまうが、社殿は掛け値なしに立派に造られている。普通の神社にまったく引けをとらない。道なりに歩いていくと、廊下は間もなく屋外部分に出る。屋根がなくなってしまうと単なる渡り廊下のように見えてしまうのだけれど、海中部に立つ狛犬や石灯籠が、ここがどういう場所なのかを思い出させてくれる。そのまま進んでいくと、国宝になっている高舞台や能舞台へと行き着く。もともとそういうものだから気にするには及ばないのかもしれないが、こんなに吹きっさらしで大丈夫なのかしら。少々心配になる。

 厳島神社はさすが一大観光地なので、十数人からが隊列を組んでいるツアー旅行客の姿が珍しくない。スペースの限られた回廊上にこういう人たちが居ると少々窮屈なのだけれど、その分ツアーガイドがそこここで神社の施設について解説してくれているのは好都合だ。別に盗み聞きしようとしているのではなくても、その内容が耳に入ってくる。例によってそうしたガイドを聞いていると、境内にある舞台では毎年正月には実際に能か何かが舞われるのだけれど、その時に使われる衣装などは軒並み国宝級の品々なのだそうだ。出来るならその時、観能のために島へと渡ってくるのも良いかもしれない。

 さて、神社の建物を一通り見終わったので、いよいよ例の鳥居の間近まで大接近を試みる事にする。この鳥居はどう考えても海の中に立っているほうが絵になるのだが、潮が干上がっているのなら干上がっているで、本物の至近距離まで近づくという見方をしなければ損だ。しかし私の場合本当にタイミングが悪く、鳥居周りには中途半端に水が張っていて、むき出しの地肌の上に鳥居が立っているというわけでもなく、本当に中途半端だった。右写真では一応海面上に立っているように見えてしまうけれど、実際の水位は長靴を履いていれば問題なく歩けてしまうほどのものだ。まあやっぱり、足下がどっぷり海中に没してくれていたほうが良いかな、というのが間近で鳥居を見ての感想。

 鳥居も見終わり、そろそろ帰りのことを考えようときびすを返したところ、ついに鹿の大集団に遭遇した。奈良の春日公園の鹿もそうだが、厳島神社の鹿も人には非常に慣れている。こちらが不審なオーラを発しながら近づいても逃げようともしない。それどころか、食べ物のにおいをさせているとえさをもらえると勘違いするのか、必死に鼻先を押し付けてくる。私の場合、昼に食べた菓子パンの袋をリュックサックのポケットに押し込んでいたのが災いし、そこを集中攻撃されてしまった。どうせ空袋なのだが、鹿にクリームパンは贅沢だ。君たちは2、300円ほどで販売されている「鹿ちやんのえさ」を食べているのがよろしい。私が思うに、奈良の鹿せんべいと同じようなものである。それにしても、「鹿にえさをやるな」という看板が出ているにもかかわらず、人間の食べ残しを鹿に与える人の姿が目立つ。そういうことがあるから、クリームパンだのお菓子だのをせびるようになるのだろう。観光客が捨てていったと思われる、やっぱり菓子パンの空袋に対して一頭の鹿が強く執着している光景を目の当たりにしたりすると、強く考えさせられる。たぶん、あの袋からは鹿にとってはたまらなく良いにおいがするのだろうけれど、そのうち食べられるはずもないビニールの袋を飲み込んでしまうのではないかと心配だ。どうしても気になったので、隙を見て鹿から袋を奪い去り、しかるべきところで始末した。島内にはゴミ箱や空き缶入れの類を見かけなかったが、おそらく鹿が漁ってしまうからなのだろう。厳島に渡るならば、ごみの始末には責任を持たねばなるまい。

 帰り道は、行きとは別の土産物屋が密集する通りを歩く。宮島らしいのはやはりもみじ饅頭屋やしゃもじを売っている店だろう。海産物の加工品を売っているところもある。他はどこの観光地にもあるようなペナントや提灯など、他愛もない品を売っているところが多い。途中の街角には、日本一(=世界一だと思うが)と言われる巨大しゃもじも展示されていた。近年の作品のようだが、果たしてどのようにして作ったのか、謎である。とても一本物の木で作れるサイズだとは思えない。

 現在では宮島といえばしゃもじの図式が出来上がっているけれど、高校時代のバスガイドさんから聞いたところは、もともと宮島としゃもじの間に密接な関係があったわけではなくて、とってつけたようなお土産品としてしゃもじの製造・販売が始まったという話だったと記憶している。それがいつ頃のことかはすっかり失念してしまったが、そうして始まった町おこし製品も、歳月を経るうちに立派な伝統工芸品に育ったというわけだ。

 それなりに楽しみながら観光し、フェリー桟橋に戻って見ると時間は17:30。良い頃合である。そろそろ本土に戻り、今宵の寝床となる広島の街を目指そうか。

 ところで神社からフェリー乗り場へと向かう帰り道、身内に不幸があったらしい家を見つけた。厳島は神域なので、死を穢れとみなす伝統的な神道の考え方に従い、島内で葬式が行われることは無いという。その家の式も、廿日市市内の葬儀場で行われるようだった。今時家以外の式場で葬式を行うのも珍しくなくなったが、厳島ではどうやら、昔からそうだったらしい。






春の宮島 TOP 仁義なき広島迷子








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