今そこにある記紀

 戦国九州は、大友氏、龍造寺氏、島津氏による鼎立の構図で語られることもしばしばあるが、実際にはこの状況が現出したのは、天正の半ば頃、中央の政局に注目すれば、織田信長の横死に前後する時期のことである。

 このような事態の発生する直接の契機となった事件が、いわゆる耳川の戦い。それ以前の九州は、実質的に古豪・大友氏の一人勝ちのような状態だった。薩摩の島津氏は薩摩一国統一がやっと、大友氏の勢力圏に接していた龍造寺氏に至っては、大友氏の顔色を伺いながら周辺の国人領主と小競り合いを続けているといった状況だった。

 事態を大きく動かしたのは、島津氏による薩摩・大隈・日向の三州統一だった。日向を追われた前述伊東氏は、姻戚であった大友氏を頼ることになる。時の大友家当主・大友宗麟は、新たに勃興した島津氏に対し(と言っても島津氏も鎌倉時代に薩摩と縁付いた名門なのだけれど)、鉄槌を加えてやろうか程度の気持ちだったのだろうけれど、兵を起こした。しかし、一説に宗麟が島津氏を追った後の日向国内に切支丹王国を築くことを夢想していたなどと言われる状態だったことから、大友軍の士気は低く、部将たちの足並みも乱れ、数的優位にも関わらず、大敗の憂き目にあった。多くの兵と共に宿老級の武将も多く討ち死にし、日向方面で島津氏に抗しきれなくなったのは元より、領土的野心に燃える龍造寺隆信を押さえることもまた出来なくなり、肥前・筑前方面の領土は、龍造寺氏によって蚕食されるに任せる状態となってしまった。

 高城は、両軍主力の激突の場となった城である。具体的には、島津方が籠もっているところを大友方が攻める形になったが、島津の用兵の妙に翻弄され、壊走するに至った。敗走する大友軍を島津軍が猛追し、多くの将兵が大雨のため増水していた耳川に追い込まれ、溺死したため、大友軍の損害は目を覆うばかりだったと言う。その印象があまりにも強烈だったためか、戦いそのものも、主戦場からは遠く離れた耳川の戦いと呼ばれるほどである。

 とまあ、九州戦史上は重要な高城なのだが、現在は堀切跡とされるものが残るだけの、山上の都市公園となっている。どちらかと言えば、一足伸ばして立ち寄った、城の近くにある宗麟原供養塔の方が、戦いの歴史を良く伝えてくれた。供養塔は、勝利した島津方の高城守将・山田有信が戦没者供養を行ったことに始まるとされ、供養塔そのものは合戦から七年後の天正十三年に完成した物らしい。現在、供養塔そのものが屋根に守られるようになっているほか、鐘や石碑によって周囲を守られ、良く人手の入っていることを妙に納得させられる、不思議な雰囲気もある。

 ともあれ耳川の戦跡を訪ねるという、長らくの願いはかなった。ここから、次の目的地までが遠かった。

 宮崎県は、鉄道利用もかなり不便が多いのだが、高速道路も満足に県内を通っていない。既存一般国道がそれなりに流れるせいもあるのだろうが、そういう交通事情だから、宮崎市周辺の県中部から、まさに長躯という感じで向かうことになったのが、天孫降臨の地である高千穂町だ。天の逆鉾がある高千穂の峰とは全く別の場所にある。ちなみに高千穂の峰は、新燃岳の噴火に伴い、この宮崎訪問時には、登ることができない状態になっていた。

 高城から、距離にして100km、時間にして2時間をかけてたどり着いた高千穂町には、高千穂神社と天岩戸神社と言う、二つの由緒ある神社がある。共に天孫降臨神話との結びつきが深い。

 まず向かったのが、町名というか、この地域の地名を冠する高千穂神社の方だ。高千穂町は、いかにも山間の街という雰囲気のところだが、その中心地と言っても良いような、商業施設や文化施設などが集中するエリアに位置している。神社は名高く、従って格式も高そうに思えるが、社域や社殿については、伊勢神宮や熱田神宮、出雲大社のような、大社の位ではない。一方で、立派な鳥居があるし、社殿も落ち着いた中に威厳のある佇まいを見せており、並みの神社ではない風格があるのも確かだ。あいにくの天気のためか、参拝者はそれほど多くない。境内には神楽殿もあり、ここで有名な高千穂の夜神楽が舞われるのだろうと思う。

 なお、高千穂の町内には、あちこちに記紀の神話をモチーフにした石像が立てられており、高千穂神社の最寄にあったのは、天岩戸の前で舞った鈿女の像だった。顔がおかめさんなので、神格としてのアメノウズメそのものではなく、高千穂神楽のうずめ舞の像のようである。してみると、これら一群の像というのも、神話そのものを題材とした物ではなく、神楽の演目に材を取っているのかもしれない。

 鈿女の舞との縁も深い、高千穂町内のもう一つの神社である天岩戸神社は、アマテラスの岩戸隠れで知られる、天の岩戸がある。全ての参拝者に公開されている訳ではないが、希望すれば、お金を払って遥拝することが出来るようになっているらしい。ちなみに見られるのは岩屋(穴ぐら)の方である。タヂカラオが力任せにぶん投げたと言う岩の戸の行方については色々な伝説があるが、例えば長野県の戸隠山なんかもその一つだ。神社としては、高千穂神社同様さほど尖ったところもなかったが(と言うか、経験上神社と言うのは仏教寺院ほどの個性が出にくいものだが)、高千穂神楽に関する本を買うことができたのは収穫だった。

 高千穂町は、標高そのものはさほどでは無いのかもしれないが、その割には険しい山容をした峰峰に周囲を囲まれており、その一方で域内を流れる川は深く谷を穿っており、地理的条件の厳しさがよく目に付く。もちろん、高千穂町はそれらの山に見下ろされる盆地内に、それなりの規模で営まれ、当然現代風の建物も立ち並んでいるのだけれど、どこか世俗離れの空気があった。断続的に雨が降り、峰峰にいわゆるガスがかかった状態になっていたのを、山気とか神気といったものと、錯覚したのかもしれない。ただ少なくとも、昔の人が、この地こそが天孫降臨の地であると認めるに至ったその心情は、分かった気がした。






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