試練の坂戸城

 坂戸城は上杉謙信の姉の子で、のちに彼の養子となった上杉景勝の生まれた城である。さらに、景勝の股肱の臣となった直江兼続もまた、坂戸城下で生まれた。知名度の面から見て抜群というほどの二人ではないが、知る人ぞ知る二人の名将を生み出した地であると言えるだろう。この城は、形態上は山城に分類される。要は山上もしくは山全体に城があったと言うことだ。現在の新潟県南魚沼市にある。

 南魚沼郡旧六日町は、2004年11月に近隣の町と合併し、現在は南魚沼市となった。その南魚沼市の六日町駅は、湯沢などのリゾート地からはいくらか離れたところにある。実際に水上からこっちの車内には長期休暇中の学生と思われる連中を中心にかなりの数の乗客がいたのだけれど、その多くは湯沢で電車を降りてしまった。後に残ったのは、いかにも「地元の人」と言う風情の人たちばかりである。大荷物、とは言わないが、パンパンに膨れ上がったリュックサックから地図を出し入れする私は、かなり浮いていたのだと思う。

 とまれ、本日のメインイベントである坂戸城への最寄り駅・六日町駅で下車。無人駅のような小さな駅を想像していたのだが、とんでもない、駅舎はきれいだしそこそこ大きく、思っていたよりも立派な駅だ。その六日町の改札を出ると、真正面に横断幕がかかっているではないか!「祝 '09NHK大河ドラマ 故郷の英雄『直江兼続』に決定!!」。2009年大河にかける六日町の熱意が伝わってくるようである。坂戸城に向かう道すがらにある小さな書店の店頭にも、火坂雅志原作の小説が平積みされていた。ちなみにこの日、六日町は夏祭りだったようである。駅前の目抜き通りは車両通行止めとなり、露店が立ち並んでいた。

 15分ほど歩き、坂戸城のある坂戸山麓に到着。事前調べによれば、ここから1〜2時間ほどの山歩きが続くことを覚悟しなければならない。18きっぷの旅は、一見するとスロートラベルのようだが、田舎を旅する場合、そのタイムスケジュールはかなりシビアになる。今後の予定を考えれば、ここ六日町の観光に費やせる時間は2時間40分ほどとなり、急峻な坂戸山が相手とは言え、あまりのんびりとハイキングを楽しむと言うわけにも行かない。

 それにしても比高400m強(資料によっては600mとしているものもある)、片道所要時間が1時間を超す山城と言うのは日本全国を見渡してみてもざらにあるものではない。山城と呼ばれるものであっても、その多くは比高200m程度の山上にあり、坂戸城に至っては最高峰の山城の一つであると言える。反面、この城の登山ルートはかなり整備されている。本丸(実城:みじょう)のある山頂を目指すには、六日町側から見てほぼ真正面のような位置にある坂戸山遊歩道(城坂)と、若干東に迂回するような薬師尾根遊歩道とが考えられる。私は、途中までは分かりやすさから薬師尾根側を進んでいたが、山中の要所要所にある案内図を見る限り、城坂の方に遺構が集中しているようだったので、道半ばにしてコースの変更に踏み切った。

 城坂は、標高634mの坂戸山の南面を、山頂目指して一直線に進んでいくかのような道である。坂の上り口には、「上杉景勝 直江兼続 生誕之地」の石碑が立っている。夏場なので下草はかなり伸びているものの、立ち木が切り払われているために山頂がそれほど遠くなさそうに見えてしまうのが曲者である。実際には結構な急斜面上の九十九折になった道を進んでいく。季節が悪かったのか、蛇やらアブやらと遭遇し、なかなか険しい道である。道沿いに大きな木が立っていない関係で終始眺めは良いのだけれど。薬師尾根側ならば中年ハイカーや登山訓練(?)中の地元の中学生か高校生がひっきりなしに往来していたので、そういう意味ではそちらの方が心強かったかもしれない。

 わりとあちこち回り道したような気がするが、約1時間後に山頂到着。山頂にはお堂がある。この城の場合、主郭部を一般的な名称である本丸とは呼ばないのか、「実城」と書かれた小さなコンクリートの標札も立っている。城の由来を説明した解説板も立っているが、著しく損傷したのを細いロープで支えながら辛うじて立っている感じだ。いたずら者が壊したとか言うのではなく、冬場の豪雪の重みにやられるのだろう。雪国の山間部では、異様な力でひしゃげたガードレールなんかがあるが、あれと同じなのではないか。実城の東側には、小城・大城という郭があり、これは実城からも削平された様子を見て取る事ができる。もちろん二地点をつなぐ道も伸びており、一応道なりに進んでみたのだが、最終的に順路が定かではなくなってしまい、何かしらの案内を見つけることも出来なかった。実城から先の道はクモの巣がはり放題になっており、何の物とも分からない野生動物の糞が多数散乱している。まさかクマではなかろうな。そう言えば、のぼりの途中ですれ違った登山者は、熊よけの鈴を装備していた。あまりぞっとしないものを感じ、早々に退散。

 下りも結局城坂ルートをチョイス。運悪く道の途中で雨が降り出した。一応折りたたみの傘を用意してきたのが役には立ったが、結局それだけでは間に合わない大雨になった。山の天気は変わりやすいというが、まさにあれだろうか。六日町の中心地までたどり着く頃には、雨もやんでいた。







上州沼田から越後 TOP 黄昏の与板城


■はみだし山城紀行
 直江兼続は永禄3年(1560年)、坂戸城下の樋口兼豊の息子として生まれた。初名を樋口与六という。木曽義仲に付き従った樋口兼光の後裔と伝わる。つまり、生まれついての直江の血筋ではなかったのだ。幼い与六は、樋口家にとっては主筋に当たる坂戸城主・長尾政景の子、景勝の元に召された。与六の英邁ぶりを知った景勝の母・仙桃院(長尾景虎=上杉謙信の姉)から息子の近侍にと乞われてのことだったとも言う。
 程なくして政景が不慮の事故で亡くなると、与六は景勝ともども謙信の春日山城へと移っていった。なお、政景は野尻池(野尻湖と混同されることが多いが二つは別物である)での舟遊びの最中に溺死しているのだが、この最期については謙信の同族で家中での発言力も強かった政景を取り除くための謀殺だったとする説もある。一方、そもそも謀殺説を言い出した史書が偽書の類であるとする見方も強い。
 真相は今もって定かではないが、謙信は父を亡くした景勝を哀れんで自分の養子に迎えたと言われる。いかにも義の人らしいエピソードだが、皮肉な事に小田原北条氏から半ば人質として迎えた養子・景虎に対しても同様の愛情を与えた事から、二人の養子は謙信の死後に彼の跡目をめぐって家中を二分する闘争を繰り広げる事になる。これはもちろん兼続にとっても大事件であった。






100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!