黄昏の与板城

 地図上で見る新潟県は大きな県だ。その県土には、日本海沿いに背骨のような越後線・信越本線が走り、そこからあばら骨のような支線が多数伸びている。今、その背骨は先の地震で寸断されており、新潟県内の鉄道移動は随分と不便な事になっているようだ。また、現在私を乗せた列車が走っている上越線は、新潟と東京方面を結ぶ最重要路線で、あばら骨といってしまうのも、それはそれで少々正確さを欠くかもしれない。

 六日町から長岡までは随分と距離がある。上越線の走りはまずまずと順調で、特急車両を通したり、単線部での行き違いのためさかんに駅に止まったりということもないのだが、それでも長岡までは随分とある。一面に広がる水田の真ん中を電車は進んでいく。ここは日本の穀倉だ。六日町が属する魚沼地方は、もちろん日本でもっとも美味い米とされる魚沼産コシヒカリの産地だが新潟は県内の至る所が米どころらしい。それだけに、7月の終わりとは思えないほど涼しい今日の気候は少々気にかかる。十年以上も前に日本を襲った記録的な米の凶作の事が思い出される。新潟の空には、鉛色の雲が重く垂れ込めていた。

 六日町駅から電車に揺られること1時間で長岡市に到着。今から10年余り前に大学受験のためにやってきたことのある街だが、そのときの様子はほとんど忘れてしまった。受験シーズンのこの地方は一面の雪化粧に覆われていたからか、夏真っ盛りの今この町に降り立ってみても「こんな街だったかしら?」という思いばかりが先にたつ。それにしても、食うものも食わずに坂戸山に登ったためさすがに腹が減ってきた。駅前にあったイトーヨーカドーで菓子パンを買い、それを食べながら与板方面行きのバスを待つ。

 長岡駅前を発つバスの中には、その名もずばりの「与板行き」路線があるのでとりあえずこれに乗っておけば与板城近くまでは行けそうである。若干安直ではあったが、ターミナルに止まっていた与板行きバスに乗車。しかし、なんだか乗客が少なくて頼りない。長岡駅から与板まではかなり距離があり、田園地帯の道をぐるぐると走り回っているうちにどんどん客は降りて行き、ついに車内には私と運転手しかいなくなってしまった。田舎のバスとはそうしたものだが、なんだか気を使ってしまう。鹿児島の開聞で同じようなシチュエーションにはまった時は、運転手のおじさんがやたらフレンドリーだったのに救われたが、長岡は人と人との間の垣根がそこまで低くなるほどの田舎ではない。そろそろいたたまれなくなってきたところで与板の中心と思しき地区に到着。果たしてここから城までどの程度の距離があるかは定かではないが、ここらで降りても大外しはしてなかろうと適当なところでバスを降りることにした。

 一応与板界隈の様子を記した地図は頭に入れてきたし、かなりの小縮尺だがロードマップも携帯しているから、何か目印になるものさえあれば城まではたどり着けそうだ。それに今回、GPS付の携帯電話も用意しているので、よほどの事がない限り迷子にはならないはずだ。極めて楽観的に付近をうろうろしていると、「城山」と書かれた標識を発見。十中八九、この城山が与板城跡であろう。与板町内には与板城と呼ばれるものが二つ、三つとあるらしいが、兼続にゆかりの城は城山であっているはずだ。案内に従うように細く入り組んだ路地へと入り込んでいく。その結果、どうやら城山というのは近くの町会の名前らしいということが分かったが、最終的には主要地方道69号沿いにあった与板城址登口にたどり着いた。

 正直に言うと「登口」という文字を見たとき、テンプルにジャブが入った程度のショックは受けた。坂戸城登山は、登っているにまさにその時はそれほど意識していなかったものの、電車に乗ったりバスに乗ったり長い間座っていたら思いがけず太もも辺りが筋肉痛になっていたからだ。この期におよんで「登る」という部分を匂わされるのはあまり気分が良くない。しかし幸運にも、与板城の城山は、鬱蒼とした藪の中の道を10分も登り続けていたら山頂にたどり着くことが出来た。近くの水田地帯から見ていてもさほど高さのない山であることは分かるから、まあそんなものだろう。

 城跡には、兼続の妻・お仙にゆかりのある「おせん清水」が湧き出していたりするが、城郭遺構らしきものでめぼしいものはこれといってない。山頂は削平されている。ちょっとした切通しのようなものや空堀程度もあったような気がするが、遺構に関する解説は絶無である。道は石畳が敷き詰められたりして整備されてはいるが、明らかに城の遺構ではない。山頂部に社があったので、おそらくその参道として整備されたのだろう。城山が荒廃を免れているのも、史跡として保存されているというよりはこの社があったればこそなのではないだろうか。基本的に、広大な水田地帯の片隅にある山の上の城であるため、景色はかなり遠くまで見渡せるものの、それも木々の切れ間からというレベルでしかないため、土地の領主の気分になるには少々物足りない。

 予想はしていたものの、取り立てて目を見張るようなものがあるわけではない与板城を後にする。とりあえず長岡駅に戻るバスを捕まえなければならない。与板の町の方に行けばバス停の一つもあるだろう。これといってあてもなく歩く。与板の町は、昭和の終わりごろのまま止まってしまったかのような雰囲気の町だ。その一角にあるバス停のベンチに佇んでいると、感傷的な気分になってくる。思えば遠くに来たもんだ。






試練の与板城 TOP 越の国・新潟


■はみだし山城紀行
 坂戸城の項でも少し触れたとおり、兼続は坂戸城下の長尾政景家臣・樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれた。生家である樋口家は源義仲に付き従った木曽四天王の流れを汲む一族である。では、後に彼が継ぐ事になる直江家とはどういう家だったのか。
 直江氏の出自には謎が多いが、藤原鎌足の孫・麻呂に始まる藤原京家の後裔であると言われる。これが直江荘を賜わり、直江姓を名乗るようになった。異説もあるが、何にせよ、越後の直江氏がその名を高めたのは、戦国時代の直江実綱(のち景綱)の時であった。景綱は長尾為景、晴景、そして景虎(上杉謙信)の戦国長尾氏三代に仕えている。
 天正6年(1578)3月13日、上杉謙信が49歳を一期にこの世を去った。後には二人の後継者候補が残った。兼続の主である景勝と、小田原北条氏から養子として迎えられていた景虎である。景虎はもちろん、景勝も謙信の実子ではない。二人の養子は上杉家の家督をめぐって争い、景虎の実家である北条氏や甲斐武田氏をも巻き込んだ戦いは、春日山城下にあった上杉氏の居館の名を取って「御館(おたて)の乱」と呼ばれた。乱は、景勝方の勝利に終わった。
 しかし御館の乱の論功行賞のもつれが発端となり、直江家を思わぬ奇禍が襲うことになる。行賞に不満を持った毛利秀広が、景勝の側近であった山崎秀仙を殺害、巻き添えで景綱の跡を継ぐはずだった信綱も斬殺されてしまう。
 実を言えば、信綱も景綱の実子ではなかった。長尾景貞の子だった信綱は、景綱の娘・お船を妻として直江家に入っていたのである。その信綱も横死を遂げ、直江の名跡は途絶えるかと思われたが、名家の断絶を惜しんだ景勝は、未亡人となったお船と兼続を見合わせ、兼続は直江家を継ぐことになる。
 与板城址に残る「おせん清水」は、このお船の方にちなんだものだ。






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