なさねばならぬ

 あくる朝。前日フロントに話をしておいたとおり、6時前から始発に乗るべく出発。ホテルから駅までは至近の距離にあるので、その点は都合が良い。今日最初の目的地は米沢城である。米沢は山形県内でも最も南に位置し、人口は10万人弱。米沢牛や「なせばなる」の名言を残した上杉鷹山によって有名だ。個人的には、かつての「独眼竜政宗」で米沢の地名を知ったこともあり、伊達政宗の出身地としてイメージが強いのだが、人伝に聞く限り当の米沢市はその点をそれほど強調してはいないらしい。ちなみに、上杉藩の初代藩主となった景勝と兼続の出身地である六日町とは姉妹都市関係にあったらしい。現在の南魚沼市と関係は続いているのだろうか。

 新潟発6:01の白新線に乗り、新発田まで進む。そこから先、羽越線で坂町駅まで。聞いたこともないような小さな駅だが、ここが米坂(よねさか)線の基点になっているので、ここから米沢に向かって乗り換え。畢竟、米坂線の端から端まで移動する事になるわけで、7時過ぎに乗車してから、下車するまでは3時間ほどの列車旅になる。

 坂町駅は、駅の敷地自体はかなり広いものの、駅舎はこじんまりとしており、何路線かの結束点にはなっているが近隣には大して人が住んでいないタイプの駅にありがちな特徴を呈していた。そこで待っていると、これまたいかにもローカル線の車両という雰囲気のワンマン列車がやって来た。2両立てだっただっただろうか。あまり記憶にないのだが、利用者の数にあわせた列車だった事は間違いない。これが、ものすごく山奥というわけでもないがそれ以上に人口密集地というでもない地域を3時間近くかけて走っていくのだ。どうも変化に乏しく、行程の大半を夢うつつに過ごしてしまった。

 この米坂線、スピードもあまり出ていないのだが、要所要所の駅で随分長い待ち時間が発生する。それはそれで単線の宿命というものであり仕方のないことだ。それにしても時刻表を見ていて気がついたのだが、一駅進むのに20分とか30分もかかるような区間がある。特急や新幹線なら珍しくもないのだが、こんなローカル線でそれだけの時間がかかるとは2駅間はどれほど離れているのか。これが地図を見てみると今まで5〜6もあれば走ってきたような距離と大して変わらなかったりする。

 ところで、まもなく米沢駅というときに米沢周辺の地図を見ていて気がついたのだけれど、米坂線は米沢市街の南縁をぐるっとなぞるようにして米沢駅に至る。途中には西米沢・南米沢という二つの駅があるようだが、米沢での目的地である米沢城(上杉神社)は西米沢駅と米沢駅のちょうど中間あたりにある。どうせ駅を降りてから歩く時間が同じになるのならば、さっさと電車を降りた方が自由時間は長くなるというものだ。西米沢駅から米沢城までのコースルートは頭の中に入れていなかったのでちょっとした決断だったが、西米沢の駅で列車を降りることにした。

 何にせよ、米沢での行動時間は短い。よく捻出できて40分ほどである。その間に上杉神社を経由して米沢駅まで歩かなければならないのだが、私の遅い足では歩き抜けるだけで精一杯になりそうでさえある。そのため電車を降りるや否や勇躍上杉神社を指して歩き始めたのだが、肝心の方角がよく分からない。気ばかりあせりながら駅周辺をうろうろする。迷子になっていた時間はものの5分ほどだったが、それさえも痛手になるほど切迫した日程だった。今にして思えばいくらなんでも余裕が無さ過ぎたような気がするが、こんな事になったのも東北の電車の少なさが最大の原因である。まあそういった経緯は後に語ることになるだろう。

 どうにか上杉神社の方向を特定して早足で歩き始めたものの、西米沢駅から歩く米沢の街は、あまりにも垢抜けない。東北にある10万人規模の小さな町だから仕方がないのだが、全国的に名前はそこそこ売れているし、もっと観光地化が進んでいるイメージを抱いていた。はっきり言って、特に何も無い田舎町である。本当にこんなところに上杉神社=米沢城はあるのだろうか。不安な気持ちに追い討ちをかけるかのごとく、鈍色の空からはぽつぽつと雨が降り始めた。はじめは「今度の旅行は天気には恵まれないなあ」程度に構えていたのだが、雨はやがてバケツの水をひっくり返したような土砂降りに変わった。雨具の装備は、相変わらず坂戸城のときに使った折りたたみ傘があるきりだったが、もはやそんなものでは雨滴を防御しきれない。こんな状況下では傘があっても無くても変わらないのではないかと疑問を持ち始めた頃、まっすぐな街路の突き当たりにあった上杉神社にたどり着いた。

 ちょっと見た感じでは普通の神社である。境内に上杉謙信の旗印である毘沙門天の「毘」の旗が掲げられているのがただの神社とは違うところで、ちょうど甲府の武田神社のような感じだが、武田信玄が暮らしていた武田神社とは違い、上杉神社にいたのは謙信の遺骸だけだっため、見るからに「風林火山!」という感じの武田神社界隈とは違い、上杉神社に乱れ懸かり龍の風情は無い。もしかすると、上杉の聖地である上杉神社に来てまで武田シンパ根性を持っているから土砂降りの雨に降られているのだろうか。ふとそんな事も考える。雨はあいかわらずの土砂降りだ。そういう状況の中で、足早に境内を散策。まず謙信の御堂跡を見、謙信像を見、上杉鷹山の像を見、「伊達政宗生誕之地」の標札を見、米沢城と、そこにゆかりの戦国武将(政宗と上杉景勝)の解説を流し読みする。兼続に関する説明も無いではなかったが、他がビッグネームぞろいなのでやはり扱いはどうしても小さくなるようである。

 とにかく、列車の発車まで時間が無い。大雨もある。出来る事ならここから米沢駅まではバスで移動したかったのだが、タッチの差で米沢駅行きらしいバスが出て行ってしまった。次の便の到着時刻を見ると、あろうことか何十分か先の話で、とてもではないがこれを待っているわけには行かない。駅までの道でタクシーを拾える事を期しながら、標識に従いつつ米沢駅の方を目指す。米沢には、いちおうレンタサイクル業者が存在しているようだが、営業場所はなぜか上杉神社近くである。駅までの往復の役には立たず、現在の切迫した状況ゆえに八つ当たりしたくなってきた。

 結局、10:42発の山形行き普通列車に乗ることは出来なかった。参った事に、米沢駅発着の電車は、実質的に鈍行か山形新幹線の二択になる。新幹線が通ってしまったために鈍行が大幅に間引かれてしまうという田舎の路線にありがちな現象が、ここ山形でも起きているらしい。ホームには米沢牛弁当を売る店もある。甘辛く煮付けられた牛肉が食欲を誘う良い匂いを漂わせているが、それを買うであろう客の姿はほとんど見えない。時間帯もあるだろうが、鉄道の利用者そのものが少ない様な気もする。これでは列車の本数が減らされるのも必然か。

 何にせよ何分後かにやってくる新幹線に乗らなければ、米沢脱出は何時間先の話になるかわかったものではない。かくてやむなく新幹線利用を決断したのだが、山形エリアを走る山形新幹線というのは、体感速度上は新快速ほどのスピードが出ているかどうかさえも怪しいという代物であった。これで乗車券以外に追加出費を求められるのはぼったくりのような気がするなあ。これでは、こちらは新幹線らしくそれなりに高級感を漂わせている車内空間に対して余分の金を払っているのも同然だ。鬱勃とした気持ちのまま山形へ向かう。あまりに悶々としていたためか、どうやらこの時の車内に傘を忘れてきたらしい。






越の国・新潟 TOP 謀将と堯将と


■はみだし山城紀行
 現在の米沢城の様子を見ても分かるように、豊臣政権下屈指の大大名であった上杉家も、関ヶ原の戦いを経て米沢三十万石の狭い領地に押し込められてしまう。もちろん三十万石でも大したものなのだが、以前からの落差を思えば大幅減封と言わざるを得ない。それだけ領地を削られても、越後以来の藩士は変わらず召抱え続けていたため藩の財政は非常に窮屈で、米沢城も大掛かりな整備はままならないままだったと言う。この慢性的な窮乏状態の解消は、かの上杉鷹山の登場を待たなければならなかった。
 さて、後年上杉家の領地となる米沢は、豊臣時代に兼続が秀吉から与えられたものだった。もちろん、秀吉から見て兼続は陪臣であり、この差配は事実上景勝の頭越しに行われたも同然である。秀吉は確かに兼続を買っていたようで、毛利両川の一翼を担い後に五大老の位置にまで上げられた小早川隆景らと共に、兼続の事を高評している。なお、隆景も秀吉から直接に領地を与えられ、事実上の独立大名として扱われた陪臣の一人である。一方で秀吉のこうした人事には有力大名とそれを支える功臣との離間を狙ったものだとも言われており、事実小早川氏は宗家毛利氏から次第に離れて行き、伊達家の片倉景綱は秀吉の策に乗せられるのを警戒して、このような論功を辞したと伝わる。兼続の場合はと言うと、結果的にはこの米沢の領地が主筋を救う事になった。
 関ヶ原の減封以後、藩士の一部は半農半士となって荒地を開いた。同時に米沢領内の治水も進められ、城の改修、鉄砲・大砲の製造(密造)など、防衛政策にも力が注がれた。兼続はこうした領国経営策の多くに深く関わったと言われている。






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