謀将と堯将と

 30分ほどかけて、米沢から山形まで移動。「痩せても枯れても新幹線」の速力に期待したが、所要時間の面では私が乗りそびれた鈍行と大差が無いのだから空しくなってくる。

 山形では、兼続が関わり「東北の関ヶ原」と呼ばれる戦いのあった長谷堂城と、出羽の驍将・最上義光の手になる、実質的に一代の栄光の象徴とも言える山形城を見て回る。市内の移動には、山形市観光協会が貸し出しているレンタサイクルを利用。これが何と無料なのだそうで、非常に良心的である。日本を旅行中の外国人も利用していた。レンタサイクルのイメージキャラクター・「またくるん」の笑顔の何と頼もしい事か。彼の姿を見ただけで、「またいくん」と答えてたくなってしまいそうだ。

 さてこの観光レンタサイクルだが、受付は山形駅構内の通路の一角にある。今この文章を書くために観光レンタサイクルの情報をおさらいしていたら、なんとそのものずばり「城下町やまがた観光レンタサイクル」のホームページがヒットしてくる。出発の前にはこれが見つけられず、どこで営業しているのかがよく分からなかったため、現地についてから営業所を探すのに若干のタイムロスを生じてしまった。前にもあったな、このパターン。確か、高知のときだったか。

 気を取り直し、長谷堂城を目指す。この城は、わりと大きな歴史的事件の舞台になったにしては、はっきり言ってマイナーである。世に「長谷堂城の戦い」と呼ばれる合戦に何らかの形で関わった三者、すなはち上杉景勝・直江兼続主従と、これに対抗した最上義光、そして義光に助勢した伊達政宗の事跡を追った記事でも無ければ名前自体ほとんど言及されない。まして城がどこにあるのかとなってくると、まるで雲をつかむような話になってくる。インターネットにはお城めぐりのサイトがいくつもあるが、アクセス方法なども含めて紹介している内容の充実した「大手」のサイトはことごとく長谷堂城のことはフォローしておらず、ネット万能の現在でもそれがどこにあるのかを調べるのは容易でない。辛うじて、山形市内に現在でも「長谷堂」という地区が存在している事が分かったので、そのおおよその位置を補足し、いくつもの地図で長谷堂地区の様子を探って、城山と呼ばれる山が存在する事、そしてその山の特徴が長谷堂城の解説に見られる内容と似通っている事を確認した上で、その城山が長谷堂城であると推定してここを目指すことにした。つまり、山形駅を出た段階では目指す地点が本当に長谷堂城であるのかどうかの確証が無かったわけだ。

 ともあれ、今の私に出来る事といったら全力で仮想長谷堂城跡に猪突猛進することしかない。道中のほとんどを立ち漕ぎで走り続ける事30分で、問題の長谷堂地区に到着。このあたりは山形市内でも郊外に属する地区のようで、なるほど確かに山が迫っている。国道348号沿いに走っていくと、前方にかなり目立つこんもりとした独立峰が見えてきた。これが長谷堂城跡だとすると、かなり高度のある山城になるはずで、山形での自由行動を許された時間内に登って下りることすら危うくなる。いやな予感に取り付かれながらも猛進していくと、どうやら長谷堂城は左手前方のさほど高くない丘陵上にあることが分かってきた。これはかなり有利な展開だ。国道を外れ、城山方向に向かう生活道路の中に入っていく。

 長谷堂城の周囲には、わりあい古くから成立していたと思われる住宅地が腰巻のように存在している。山自体は目の前にあるのだけれど、登り口を求め、その家並みの切れ目を探しながらこんもりとした小山の周りを周回する。果たして、登り口は山の南側斜面の方に存在していた。民家の庭先に通じるかのような細い路地に入り込み、個人宅の裏庭を見下ろすように上を目指す坂道を登り始める。どうやら山腹にそれなりに由緒あるお寺がある関係で、道は整っているらしい。あまり城跡という雰囲気でもないが、雑木林の中を進むような道を10分あまりで登りきると、本丸跡と思われる削平地にたどり着いた。ここはかなり広い。ウッドチップが敷き詰められていて、思ったよりもかなり人手が入っている印象だ。少なくとも、史跡とは名ばかりにして荒れるに任せているような雰囲気ではない。木立に囲まれているので四囲に対する展望は無いが、山形市街方面には開けている。近隣の住人が散歩に来るにはちょうど良い場所といえるだろう。

 長谷堂城が城跡としては簡素だったのが、幸と言えるのか不幸と言うべきなのかは難しいところだが、じっくり堪能するというほどでもなかったので見学もほどほどに下山、今度は山形市のほぼ中心部にある山形城を目指す。こちらは、俗に「最上百万石」と称された外様の雄藩・最上氏の本拠だった城であり、かなり規模は大きい。もっとも、最上氏は江戸時代の早いうちに改易になり、その後には小藩主ばかりが入るようになったため、城の維持もままならず、年代を下るほどに荒廃していったと言われる悲運の城でもある。現在の状況はよく分からないのだが、昨日の沼田城からこっち、小さな城跡ばかりを見学してきた事もあって良い刺激になりそうだ。

 あまりのんびりしている時間はなさそうだったが、山形城址に寄った上で駅まで戻っても、目的の列車にはどうにか間に合いそうである。来る時に走った国道348号を逆走する。そうして市街地まで戻ったのは良いのだが、山形市内の道路案内図は、なぜか城址公園や山形駅のようなランドマークへの誘導はせずに、地元民にしかわからなさそうな、町会とも地区名ともつかないような地名の方にしか導いてくれない。その地名の意味するところが分かる人であればそもそもそのような案内は不要な気がするのだが、なぜこうなのだろう。思ったより城までの道のりが遠くなりそうな気がして恨めしい。

 それでもどうにか大迷いはせずに山形城にたどり着いた。しかし残念な事に、城跡はさほどのものでもない。お城サイトや城跡めぐりの本を見ているとなかなかに壮麗な城のように錯覚してしまったのだが、あれらの記事に使われる写真は、山形城の良いとこ撮りを実にたくみに組み合わせて構成されている。もちろん写真の場所自体は山形城内に確かに存在するのだが、実際に行ってみると石垣と堀のあるだけの公園である。まあ現在進行形で整備工事が進んでいるようなので、もう数年もすれば面目を一新するかもしれないが、現在はこれというものも無い。2007年現在で城跡らしい雰囲気を醸し出しているのは、一部復元された城壁と城門、そして上杉軍との決戦に臨もうとしている最上義光を象った銅像ぐらいのものか。「最上義光公勇戦の像」と題されたその像は、「慶長五年(西暦一六〇〇年)の秋九月 怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ 自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主最上義光が決戦場富神山にむかって進撃せんとする英姿」なのだそうだ。さすが山形は最上びいきである。

 ちなみに、奥羽本線をはじめとして山形駅から北に伸びる鉄道線路は山形城の堀を通っている。車窓から見る山形城はまた雰囲気が違うだろうな。そんな事を思い、そろそろ出発の時間が迫っている事をいやおう無く思い出させられた。






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■はみだし山城紀行
 兼続は、あまり要害とも思えない長谷堂城を結局落とせなかった。城攻めが成果を上げるよりも早く、関ヶ原において石田光成が敗北したたため、早々に兵をまとめて退却しなければ雪崩を打って押し寄せるであろう徳川方大名の軍に袋叩きにされる恐れが出てきたためだが、このあたりは兼続の読みの浅さという気がしないでもない。直江兼続という人は、内政家としてはかなりの辣腕を振るった人物であるが、軍略家としていまひとつのイメージがある。上杉家の家運をかけたといっても過言ではないこの戦いで、あまりピリッとしなかったためだ。至極個人的な感想である。
 なお、伊達氏と並ぶ東北外様雄藩というイメージがある最上氏も、関ヶ原時点では会津の上杉氏に実力で大きく水を空けられていた。石高で言うと上杉が120万石、最上は20万石強ほどである。「最上義光公勇戦の像」の像の解説にもあったとおり、当時の最上藩の国力からすれば、兼続率いる上杉軍二万三千は重大な脅威であった。
 戦後、上杉はもともと兼続の所領だった米沢三十万石に押し込められ、最上氏は五十万石の大大名へと躍進したので両者の立場は入れ替わったのだが、最上の家は江戸時代初期の段階で断絶してしまった。







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