■はみだし山城紀行
兼続は、あまり要害とも思えない長谷堂城を結局落とせなかった。城攻めが成果を上げるよりも早く、関ヶ原において石田光成が敗北したたため、早々に兵をまとめて退却しなければ雪崩を打って押し寄せるであろう徳川方大名の軍に袋叩きにされる恐れが出てきたためだが、このあたりは兼続の読みの浅さという気がしないでもない。直江兼続という人は、内政家としてはかなりの辣腕を振るった人物であるが、軍略家としていまひとつのイメージがある。上杉家の家運をかけたといっても過言ではないこの戦いで、あまりピリッとしなかったためだ。至極個人的な感想である。
なお、伊達氏と並ぶ東北外様雄藩というイメージがある最上氏も、関ヶ原時点では会津の上杉氏に実力で大きく水を空けられていた。石高で言うと上杉が120万石、最上は20万石強ほどである。「最上義光公勇戦の像」の像の解説にもあったとおり、当時の最上藩の国力からすれば、兼続率いる上杉軍二万三千は重大な脅威であった。
戦後、上杉はもともと兼続の所領だった米沢三十万石に押し込められ、最上氏は五十万石の大大名へと躍進したので両者の立場は入れ替わったのだが、最上の家は江戸時代初期の段階で断絶してしまった。
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