回る会津

 さすがに新幹線の速力はすさまじい。鈍行なら3〜4時間、場合によっては5時間もかかりそうな仙台-郡山間を1時間とかからずに移動してしまった。18きっぷで乗れるのと同系統に属する乗り物だとは、とても思えない。この速さなら仙台から名古屋まで半日で移動できるわけだ。

 会津若松への分岐点となる郡山駅で、ひとまず新幹線を降りる。ややこしい話になるが、ここで途中下車をして新たに若松までの切符を買いなおした方が仙台発若松経由名古屋行きの切符を買うよりも安上がりになるのだ。そのきっぷは昨日のうちに押さえているから、この駅で降りるのは、ちょっとばかり郡山の様子を偵察したいのと、儀礼的な意味合いも強い。

 途中下車をしたい旨を伝えて改札を出る。郡山駅は、さすがに新幹線が停まる駅だけあって規模はそこそこのものだが、地方都市、平日の朝方ということもありそれほどの人通りはない。福島のみやげ物を扱う店もあるようだが、みやげ物選びは帰りにしよう。それより、早朝から動き回って腹が減った。実を言うと新潟(魚沼)では「へぎそば」なるものをちょっと食べてみたかったのだが、何となくそういう機会を得られず、以来へぎでなくとも蕎麦を食べたくて仕方がなかった。そこで駅構内にある蕎麦屋へ。早い話いわゆる立ち食い蕎麦屋のような店だが、一応いす席はあり、本当に立って食べるわけではない。こういう店で食べる蕎麦というのは、意外に外れは少ない。当たりも少ないのだけれど。ちなみに福島の蕎麦のつゆは関西のような薄い色ではなく、関東系の黒いつゆだった。私は関西風はあまり好かないので好都合だった。

 蕎麦を食べてふらふらしているうちに列車の時間が迫ってきたので、再度改札を通って今度は在来線のホームへと移動。若松まで行ける列車は1時簡に1本程度しか走っていないようで、そういう運航状況からだとここもまた典型的なローカル線のひとつといえる。やって来た車両もワンマン列車に良くあるスタイルのそれだった。にしては乗客が多く、車内が少々手狭に感じられる。サラリーマンもいるが、多くは夏休み中の家族連れやすでに一線を退いたものと思われる老夫婦などだ。ちょっと参ったのが数組の母子連れで、おそらく母親同士が旧知の仲なのだろうが、電車内でキャーキャー騒ぐ子供たちをちっとも叱ろうとしない。自分達のおしゃべりに夢中というのもあるのだろうが、そもそも例え子供のすることと言えど電車の中で騒ぐ事が他人の迷惑になるという感覚が完全に欠落しているようにも見える。田舎にはおおらかなところが多いが、福島ではこういうものなのだろうか。

 磐越西線の南側には猪苗代湖があり、北側には「♪会津磐梯山は宝の山よ」の磐梯山があり、そこへの登山客らしい人たちの姿も目に付く。今日は天候が良くないのだが、磐梯山はこんな日でも登れるような山なのだろうか。間もなく見えてきた磐梯山の大きな山影を見ながら思う。山頂の方は雨雲に煙っていた。それにしても、磐梯山はなぜ宝の山なのだろうか。小原庄助さんとは一体何者なのだろう。謎である。この界隈では伊達政宗ゆかりの史跡である摺上原(すりあげはら)・人取橋にも足を伸ばしてみたかったのだが、今回は実現の運びとはならなかった。次の機会を待とう。取りとめもない考えが頭の中を駆け抜けていく。

 1時間ちょっとかかって会津若松駅に到着。列車のスピードが遅いためか、体感時間はそれ以上に感じられた。つまり磐越西線は名前の通り新潟と福島を結ぶ路線で、昨日米沢に向かわなければダイレクトに若松に来ることも出来たのだ。もっとも、私の中で若松の優先順位がそれほど高くなかったので効して後回しになったわけだが、この旅のメインテーマである「直江兼続の事跡を追う」という趣旨からまったく外れる立ち寄り先ではない。会津若松は一時期は兼続の主である上杉景勝の所領となっていた。ほぼ同時期、兼続は豊臣秀吉から直接に米沢の所領を与えられており、後年の関ヶ原で会津を召し上げられた景勝は、要するに家臣の領国に転がり込むような形になるわけだが、上杉が会津百二十万石の大大名だった時期には、兼続も上杉の臣として会津若松の街づくりに尽力している。

 もっとも、会津若松といわれて多くの人が連想するのは幕末の会津戦争であろう。とりわけ白虎隊の話は有名である。会津若松駅の駅舎の前には、やはり白虎隊の像が立っている。結果的には早とちりで自害することになった少年武士の姿が哀れを誘う。白虎隊に限らず、戦争直後の会津の様子は酸鼻を極めたらしく、会津人の長州人に対する恨みにはつい最近まで根深いものがあったのだそうだ。現在の会津若松は、そうした凄惨な過去の記憶を少なくとも表面上は払拭し、歴史の香り漂う観光都市として知られている。白虎隊以外では野口英世の出身地としても売り出しており、市内には幕末・明治の建物が多く残されている。

 会津若松で立ち寄りたいのは、第一に会津若松城、そしてさざえ堂、余裕があったら白虎隊の墓である。早速これらを目指すべく、白虎隊の横を通り抜けて市内をループする観光バスへ。その名もずばり、「ハイカラさん」というのだそうだ。名前どおりのレトロな車体で雰囲気はあるのだけれど、いかんせん車体が小さい上に出入り口が車両前部に一箇所しかないので、利便性にはやや難がある。そこに2,30人の乗客があるのだから、果たして目的地で大過なく降りられるのかどうかと心配になってしまった。結局、私と同じ会津若松城で下車する客が多数いたので心配したような事態にはならなかったのだけれど。

 会津若松城は、古くは戦国大名芦名氏の本拠地であった。どの程度の連続性があるのかは調べていないが、後年伊達政宗に攻略された黒川城が、会津若松城の前身(あるいは別名)である。もっとも、政宗は秀吉が発した惣無事令(大名間の私闘を禁じる法令)に反して黒川城を攻め取ったため、直後の小田原参陣の時に会津もろとも黒川城を召し上げられている。その後には蒲生氏郷や、前述の上杉景勝が入ったが、幕末には譜代の松平容保が会津藩主を務めていた。これがため会津は戊辰戦争でも有数の激戦地となったわけだが、容保はもともと後に会津を襲うことになるこの惨禍を予見していたようで、反幕府勢力すなはち後の新政府軍との戦闘の矢面に立たされるであろう京都守護職の要職につくことを拒んだのだそうだ。現在、会津若松城はコンクリート造りの再建天守を持っており、会津にまつわる歴史の諸々はそこで勉強できた。

 城内の様子を一通り見学した後、再びバス乗り場へ。ハイカラさんは本数がさほど多くなく、会津若松市内の観光地を数珠繋ぎに結びながら運行するため移動効率も良くないのだが、他にこれという移動手段がないのでこれに頼らざるを得ない。都合よくタクシーでも捕まえられれば話は違うが、観光都市の割に若松市内を走るタクシーの数は多くない。貸切出来れば話は別だが、そんな御大尽遊びみたいな真似は出来ないので、おっとりやって来るハイカラさんを待つ。若松では3時間ほど自由行動が可能だったはずなのだが、実質的に若松城を見ただけでタイムアップとなりそうだ。白虎隊の墓やさざえ堂を見ている時間はない。そればかりか郡山までの戻りの列車の時刻に間に合うかどうかさえ微妙な情勢になってきたが、そこはどうにか間に合った。会津若松駅で、列車が出るまでの10分ほどの間に自分用のお土産として赤べこを買う。よく見る郷土玩具だが、会津のおもちゃだったようだ。それを知らなかったのは不覚である。

 こうして郡山まで戻り、何とか言うダブルデッカーの新幹線の1階部分に乗り東京へ。2階は満員御礼状態だったが、1階には若干の空席があった。「良い大人であっても、やはり2階建ての2階のほうが好きなのか」と、自分のことを棚にあげて半ばあきれ、半ば感心したが、問題の新幹線の1階は、視線の高さに駅のホームが来るほど低い位置にあり、従って車外の風景など見えないも同然の状態で、これがなかなかフラストレーションがたまる。1階より2階に人気が集中するのは致し方なかろう。そんな悶々とした状態を1時間ほど続けて東京駅着。たったこれだけの時間で福島から東京まで移動できるのかと驚いたのもつかの間、その後の東京-名古屋間は、この距離を2時間とかからず走り抜ける「のぞみ」などというモンスター級の超特急が10分強の間隔でピストン運行しており、たかだか隣町へ移動するだけでもえらく苦労しなければならなかった東北スロートラベルとは一体なんだったのかと、思索的にならざるを得なかった。






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■はみだし山城紀行
 関ヶ原の戦いは、家康による豊臣家への反逆ではない。あくまで豊臣家中における内ゲバである。実際はともかく、その戦端が開かれた慶長5年の段階において、家康はこの戦いをそのように演出したかったはずだ。いかに政権の実質的ナンバー2だった家康でも、公然と豊臣家に反旗を翻せば逆賊として討伐される可能性は極めて高かった。豊臣から政権を奪うには、段階的かつなし崩し的にこれを行う必要があり、その第一段階として敵と味方を峻別し、敵となる者をまとめてたたくことで豊臣家中の実権を奪おうと考えたのだろう。
 そのためには実際に彼がやったように、対立する者たちと一戦交えてしまうのが分かりやすかったのだが、単に「気に入らない」とか「反抗的だ」の理由で戦いを吹っかけてしまう事ができないのが政治の世界である。家康はもちろん、結果として彼に倒されることになった石田三成にしても、相手を打ち倒すためのもっともらしい理由を探していた。家康に至っては、これを積極的に作り出そうとしたほどであり、そのための布石となったのが、「上杉に叛意あり」として行われた会津攻めだったと言われる。当時の政治情勢から言って、家康が挙兵をして上方を留守にすれば、三成も「家康討つべし」のもっともらしい理由を掲げてその側背を突いて来ることになるだろうという読みがあったと、現在では考えられている。
 巻き込まれた景勝にしてみればいい迷惑だったのかもしれないが、彼は家康から突きつけられた詰問状に対して「そんな疑惑をかけられる筋合いは毛頭ない」とはねつけた。直江兼続は「あくまで難癖を付けるなら一戦も辞さず」という強硬姿勢で臨んだ。これが世に言う「直江状」であるが、上杉主従のこうした返答に対し、家康は膝を叩いて喜んだのかもしれない。
 ところで、何か大きなアクションを起こすにはそれなりの大義名分が必要なのが政治の世界と先述したが、家康が景勝を詰問したのにはそれなりの理由があった。実は家康が景勝を指弾する口実となったのが、越後の堀秀治からの讒訴であったとされている。越後は景勝の旧領であるが、景勝の会津移封と秀治の越後入封に際して年貢の徴収をめぐるトラブル(この転封はちょうど米の収穫期に行われたものだったが、景勝が越後を出て行く際に越後領民から年貢をいくらか徴収、これに対し秀治はその返却を求めたが結局は実現しなかったというもの)が発生したと言われており、それ以来二人の折り合いは悪くなっていた。家康は数年来燻っていた両家の間の遺恨をうまく利用した形になった。






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