房総半島について

 東京駅八重洲口に、バスが到着したのは、夜もまだ明けない午前6時のことだ。以前、甲府に泊まるつもりだったのに、何かの大規模なセミナーとぶつかってしまったがために、山梨県内の都市部で宿を見つけることが出来ず、結局中央線沿いに東京駅まで流れてきて、八重洲口周辺のサウナに泊まった事がある。朝食を摂ろうと思い、その時の記憶を頼りに、近くにあったはずの吉野家を探した。が、見つからない。駅の構内をうろうろすれば、軽食の食べられそうな店くらい見つからないこともないだろうと思ったが、なまじ巨大な駅であるだけに、探査行も思うに任せない。結局、今日最初の移動に備えるため、東京駅構内の探検は切り上げることにした。

 初日、まず目指すのは、千葉県内にある久留里城だ。属する自治体名で言うと、君津市の一部と言うことになる。君津と言う地名そのものは、時折耳にすることはある。が、一体どんなところなのかは、まるでイメージできない。東京に来ることはしばしばあるのだけれど、これまでのところ、千葉県の深部に肉薄したことはなかった。城の関係で言っても、千葉県の城で見たことがあるのは、シンデレラ城ぐらいのものである。そのため、そろそろ千葉県のほか、関東で手付かずとなっている栃木県・茨城県あたりを徘徊してみようかと思ったのが、今回の旅の発端だ。

 にしても、東京と房総半島の距離感が良く分からない。半島部と言うのは、交通・物流上の不利から、往々にして田舎なのだけれど、痩せても枯れても首都圏に位置する房総半島の実情は、全く見えない。それなりに都市化されていそうな気もするし、ど田舎のような気もする。

 6:43に東京駅を出て、蘇我、木更津で乗り換え、久留里駅に着くのが9:01。乗り継ぎの便が良いのは、やはり関東ならではなのだろうが、2時間以上の時間がかかると言うのは意外な気もする。

 東京での鉄道旅を考える時、地方出身者にとって恐ろしいのは、その路線数の多さである。何駅に何線が乗り入れているのか、目的地へ行くには何駅で何線に乗り換えれば良いのか、とにかく分からない。東京駅などその最たるもので、ホームの本数だけなら大阪駅や、若干盛った事を言うのなら名古屋駅とも大差はないのだけれど、路線数が多いために各線の乗降ホームが細かく分けられているのと、駅構内の構造が複雑なのは恐怖だ。今回、まずは京葉線に乗る必要があるのだけれど、京葉線は改札からえらく遠い地下にそのホームがあった。どうやら蘇我まで行くことは間違いないらしい列車を探し出し、しばらく待っていると、やがて列車はホームを出た。最初の駅である八丁堀駅まではずっと地下を走り続けるのが、妙に不安感を煽る。別に、外の風景が見えたところで、土地勘があるわけでもないのだけれど、列車が地上部に出て、その窓から今話題の東京スカイツリーが見えた時、初めて東京にやってきた実感がわいてきた。その高さが売りとなっているスカイツリーだが、京葉線の車窓から見る限り、比較対象となる適当な建物が全くないため、そのスケールについては今ひとつ実感がわかなかった。

 列車は、蘇我での乗換えをはさんで、木更津までは人口稠密地帯を走り続ける。やはりそこはそれ、首都圏と言ったところなのだが、木更津から先、その名もズバリの久留里線に乗り換えると、急に田畑が目に付くようになった。そもそも久留里線自体が、非電化・単線の典型的ローカル線で、東京の隣県とは思えないところさえある。そうしてたどり着いた久留里駅は、路線名になっているほどの駅だから、それなりの規模なのだろうと思っていたら、辛うじて無人駅ではない程度の、小さな駅だった。Suicaは使えるのか?

 列車を降りると、寒い。暖流であるところの、黒潮洗う太平洋沿岸と言うのは、押しなべて暖かい地域だと思っていた。高知然り、和歌山然り、静岡然り。愛知県内でさえ、渥美半島や東三河は、名古屋などに比べればかなり暖かい。が、千葉のこの場所と来たらどうだ。内房・外房と言った観念はあるのかもしれないし、やや内陸に入った地域であるのも確かではあるのだが、それにしても、太平洋からそうは離れていない地域のはずである。駅を出て、最初の目的地である久留里城を目指す間は、国道410号、旧久留里街道沿いを歩くのだけれど、山陰になっている部分が多いこともあって、どこか寒々としている。一日中ろくに日が当たらないであろう箇所に至っては、氷が張ったままになっているほどだ。

 久留里城は、旧街道に影を落とす山の尾根上にあった。わずかばかり山側に入り、短いながらトンネルを抜けはするのだけれど、久留里の街中からの比高差はさほどのものではない。一応、旧城地付近は城跡公園の体に整備されているため、近くに駐車場が設置されているほか、山頂付近にまで舗装道路が続いていたりもする。もっとも、バードウォッチングのスポットと言う位置付けもされているらしく、探鳥路という触れ込みの、いわゆる普通の山道もある。城跡の散策に来たのであれば、無機質な舗装道路よりは、土の露出した山道を行くべきだろうと、探鳥路の方を進むことにしたのだけれど、探鳥路はあくまで探鳥路といったところで、一目瞭然にそれと分かる城郭遺構は少ない。一応、火薬庫跡という標柱の立った平地と、かつては堀切だったであろうと思われる、深くきれ落ちた谷筋が目に付いただけである。ただし、どちらかと言えば里見氏の居城として名高い久留里城において、火薬庫が置かれたのは近世以降のことのようである。

 そうこうしているうち、眼前に城郭建築を模した、平屋の建物が姿を現した。久留里城址資料館だが、決して復元建造物の類ではない。さらに先に進めば本丸跡と模擬天守があるのだそうだが、資料館の入口には、資料館を見学した後で模擬天守に向かうことを勧奨する一文が掲出されている。が、そこまでしている時間があるかどうか。展示に期待できないと言うのではない。しかし、久留里線があの調子だったことを思えば、大事をとって早めに切り上げたいと言うのも偽らざるところだ。少しばかり資料館の入口で逡巡した後、結局中には入らず、本丸跡へ。

 本丸跡には、模擬復元天守閣風の展望台があるが、これはさほどのこともない。一応、天守台跡と土塁が保存されており、城郭遺構としては、当然こちらの価値が高い。

 が、久留里城跡は、総じて近代的な建造物やオブジェが主張し過ぎている気がした。アクセス道路の建設のため、かつての縄張りの一部が削り取られている風もあるし、そこも残念に感じる。じっくり探索すれば、また違ったものが見えるのかもしれないが、概括的に見れば、少し鼻白んで城跡を立ち去ることになった。







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