千葉のお城代表

 佐倉市は、房総半島の付け根に位置する。千葉県の県都である千葉市の北東の自治体である。これまたしばしば名前を聞くことがある。その頻度は君津市よりも高く、その取り上げられ方からも、君津よりは少し都会的な扱いをされていると言って良いだろう。とは言うものの、土地勘のなさと言うこならば、君津市と大同小異である。

 この街で私が目指すのは、かつて市内に存在していた佐倉城の跡だ。房総半島を代表する大名・里見氏の居城ではあるものの、一般にはマイナーな城である久留里城と比べれば、こちらは日本城郭協会が選定した名城100選に選ばれている。ただし、この100選は、日本全国47都道府県からそれぞれ各1城以上を選定する方針の下にリストアップされており、層の薄い県の場合だと、「何でこの城が」程度の城が選ばれていることもしばしばある。予断を持つのは良くないが、千葉県も、どちらかと言えばレベルが低い方の県ということになる気がする。そこの代表である佐倉城は、どこまで期待できるものなのだろうか。

 久留里駅から、とにかく往路を千葉駅まで引き返す。千葉から先は、総武本線で20分弱ほど行くと、佐倉駅である。都合2時間程度の道のりになる。

 東京近郊は、当然のことながら私鉄網も発達している。佐倉城の場合も、最寄り駅は、京成佐倉駅となるのだが、18きっぷの旅人は、もちろんJR佐倉駅側からアプローチすることになる。JR佐倉駅周辺は、大都市のベッドタウンの、さらにもう一つ外縁という雰囲気の街並みが広がっている。少し離れると、原野とは言わないが、休耕中の田畑が目に付くのもそれらしい。関西圏はもちろん、中京圏にも、こういう感じの街並みは存在している。ある意味では、いかにも見慣れた街並みだが、当然さほど際立った特徴があるわけでもない。

 駅から佐倉城址までは歩行距離にしておよそ2km弱と言ったところか。駅を出てまっすぐ北に向かえば、比較的近くに感じたのかもしれないが、経路の簡明さを求めて県道沿いに歩いたところ、城址公園として整備された区域の中でも北西端付近にある入口にたどり着き、遠回りになった。佐倉城は、もともと石垣の存在しない城だったようだが、城郭時代の土塁の名残だと思われる土手が、県道に面して現存しており、旧城域の中に開かれたと思われる住宅地が、これによって幹線道路側から隔絶されているのがまず目に付いた。

 佐倉城址公園は、想像以上に大規模な公園のようだ。すでに触れたとおり、私はJRの駅からもっとも遠い入口から公園内に入る形になったのだけれど、概略図で見る限り、反対側の入口はかなり駅近くに設けられているようである。城域内には、水堀の名残と思われるものもある。また、現在の公園は城の主要部分に過ぎず、本来の城域はもう一回りほど広かったようだ。一個の城としてみた場合、中程度の規模だったということか。

 途中、三の丸あたりの曲輪を横目に見ながら、緩い登り坂を登っていく。どうやらこのあたりには、帯曲輪や出丸もあったようだ。本丸を中心とする区画ではないためか、思ったよりは後世の手が入っていなさそうで、ちょっとした平山城の築かれた、里山のようである。ただし、どちらかと言えば付帯施設の範疇に入るとは言え、藩政時代に現在ほど多くの木が生い茂っていたことはないだろうと思われる。

 さすがに主郭部まで移動すると、公園らしく手が入れられていたが、深い空堀などはそのまま残っているし、今ではただの広場のようになってしまっている本丸跡も、確かにぐるりを土塁で囲まれている。石垣は、意識して探したが、見当たらない。事実上存在しないと言ってしまっても良いだろう。関東地方の城では、あまり大規模な石垣が見られない。徳川系城郭であっても、西日本の近世城郭には大掛かりな石垣が見られることを思えば、技術的な問題と言うよりは、やはり定説どおり、石材の調達に難があったと言う事なのだろう。瀬戸内地域では、各々の城山自体も含め、石垣に向く花崗岩質の山が良く見られるが、関東地方はあまり花崗岩を産しないのだそうだ。と言うより、だだっ広い関東平野において、限られた産地から城の建築予定地まで大重量の石材を運ぶのは、コストが嵩む。距離があるのに加え、水運も利用しにくい。そのため、江戸城のように、一層の権威付けが求められる城に限って石垣が採用されたと考えるべきか。石垣のない城、そして佐倉を後にする電車の車窓から見えた山影の見えない広大な平野を眺めて、そんなことを思った。

 今回の私の旅は、茫漠としてどこかつかみどころのない、この関東平野を舞台にして、なお続いていく。







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