何度沈んだってサンライズ

 日光の駅に降り立つ。何となく、昨冬に高野山へ行った時のことが連想され、日光も極寒の地なのではないかと思われたが、覚悟していたほどではない。もちろん、気候温暖というわけでもなく、融け残りの雪や、氷の張った水溜りなんかは目に付いた。

 今回はじめて知ったのだけれど、観光シーンで日光と呼ばれる地域は、思いのほか懐が深い。中禅寺湖、華厳の滝、男体山といったところは、私が目指す東照宮から、まだ一山向こうで、その途中にあるのが、これまた有名ないろは坂である。戦場ヶ原に至っては、中禅寺湖他のさらに奥だ。

 ただ、今回目指す日光の社寺に関しては、駅からもさほど遠くないところにある。途中の道のりは、少なくとも都会的ではないが、決して寂れてはいない。観光産業を核にして、日光はそれなりに賑わっているようだ。

 歩くこと20分ほどで、神橋のたもとに到着。見たところそれほど古くはなく、橋梁自体は近年になって再建されたものなのだろう。昔はこの橋で大谷川を渡って神域に入っていたのだが、現在は、車はもちろん、一歩行者であっても、隣接する国道沿いに歩いて行けば事足りる。逆に、渡りたい人が自由に渡れると言うものではないらしく、ここを通りたい場合には渡橋料を納める必要があるようだ。不信心で軽薄な観光者の私は、神橋を横目に見ながら、国道に架かった橋を渡る。国道側には、黒衣の宰相と呼ばれ、日光にゆかりのあった天海僧正の像が立っている。川を渡ると、「世界遺産 日光の社寺」と刻まれた石が目に入った。

 未だに「日光の社寺」のスケールが良く分からないのだが、近在の案内板の類を見るに、例えば高野山の時ほどの広がりがあるわけではなさそうだ。実際、道なりに少し歩いたら、輪王寺にたどり着いた。ただ、今のところこのお寺に強く惹かれるものもないため、ひとまずメインとなる東照宮を目指す。全体に、思ったほどには神さびたムードはないものの、ある意味では分かりやすい観光スポットである。すでにかなりの観光客が繰り出してきており、彼らについて行ったら、案外あっさりと東照宮の入口にたどり着いた。拝観券の買い方は、二社一寺セットとか、宝物殿込みとか、色々あるようだが、今回は本当に東照宮の中心部のみ見られる券を購入した。

 境内、と言ってもすでに大分前に社域に入っていたような気もするが、とにかく有料エリアに入る。ほどなく、荘厳なつくりの門をくぐった。いやに立派な門だなと思いながら一度通り過ぎると、それが有名な陽明門なのだった。記憶している限りでは、もっと色彩の鮮やかな門だったような気もするのだが、とにかく立派な門である。陽明門をくぐると、そこが東照宮の境内だ。主だった建物は、視界に収まりきる範囲に建てられており、伊勢神宮とか出雲大社とか、本当に社格の高い神社ほどには広くないようだ。

 今回、日光東照宮を訪ねるにあたり、見ておきたいと思っているものが、三猿、想像の象、眠り猫である。ありきたりなチョイスだが、他の見所は良く分からない。

 通路沿いにある建物をぼんやりと見ながら進んでいくと、眠り猫は非常に分かりやすいところにあったのだが、その所在は東照大権現こと家康の霊廟たる奥社参道の入口、これより先には実質何もないといった場所である。にもかかわらず、ほか二点が見つからない。どう考えても見落としたまま通り過ぎてしまっているので、少し戻ったところ、三神庫の妻部分に想像の象がいた。駄洒落みたいな名前だが、狩野探幽が実物を知らずに想像でデザインしたことからそう呼ばれているのだそうだ。確かに全体のフォルムは象なのだけれど、夢を食べる獏の要素も、いくらか入っているような気がする。

 ここで、三猿はとりあえず後回しにして、先ほどの眠り猫のところまで進み、奥社を目指すことにした。眠り猫は、伝説的な名工左甚五郎の作として名高く、非常に重要なところに掲げられており、国宝にもなっているが、その意味するところは諸説あって判然としていないのだそうだ。

 眠り猫から奥社までは、二百段ほどの石段を登っていくことになる。城跡の石段とは違い、登りやすい石段である。そこで、一気に登りきった。奥社には、建物と言うほどの建物はなく、銅製の宝塔が一基立っているのが印象的だった。それ自体は、さほど奇抜な意匠というわけでもないのだけれど、神格としての家康の魂が封じ込められているのかと思うと、厳粛な気持ちにもなる。ちなみに、家康の死後間もない時期には木製だったのが、時を経るごとに石製、そして現在の銅製へと作りかえられていたのだそうだ。現在のものは、五代将軍綱吉の時に作られた物らしい。写真で見たことはあるが、これも銅つくりである以外は、よくある形のものである。宝塔には、間近まで近づくことは出来ないが、ぐるりに通路が作られており、正面以外の全方位から見ることが出来る。正面は、祭事等の時に、許された人だけが入れる祭殿である。

 奥宮というだけあって、東照宮の境内で、一般観光客が入れる範囲内で、これ以上の奥地はない。あとは来た道を引き返す。復路、まずは鳴き龍で知られる本地堂へ行ってみる。中に入ると、お坊さんが拍子木を打って、鳴き龍の不思議について説明してくれた。計算づくか、おそらくはそうなのだろうが、拍子木を打つ場所によって、鈴の鳴るような音が聞こえたり、たんに拍子木そのものの音に聞こえたり、音の響き方が全く違う。なるほどと感心していると、お守りの販促のような口上が始まったのはご愛嬌である。

 本地堂を出て、持参した「ことりっぷ」を繰ってみると、往路で見つけられなかった三猿は、陽明門入ってすぐの神厩舎の欄間部分にあるのだと分かった。そういう目で見てみると、すぐに見つけることが出来た。一体、最初にここを通った時、私は何を見ていたというのか。それはさておき、有名な見ざる、言わざる、聞かざるは、猿の一生を彫ったうちの、子供時代の一説に相当するもののようだ。彼らの一生は、仏教説話的人生訓の秘められた物語仕立てになっており、人間が生涯の局面で直面する様々な場面を、猿に仮託したものと見ることも出来る。であると同時に、生々流転と繰り返されていく生の営みをも表している。眠り猫や想像の象に比べると、意味が簡明に表現されているだけに、心に残るものがある。

 日光東照宮を出た後は、隣接する二荒山神社へ。さすがに村社なんかとは格が違い、鳥居をくぐってすぐに見える範囲だけでも、並みの神社よりは広いのだけれど、すぐに興味を引かれるものがなく、思ったより参拝客が多かったこともあって早々に退去した。

 日光を後にして、次に向かうのは水戸城である。







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