サイキック古都

 高山本線は未電化の路線である。乗車したのは奈良行きの時に体験したのと同じような2、3両編成のディーゼル車であった。普通の電車に比べるとかなり騒々しいし、細かい振動もある。そしてやっぱり、後乗り前降りのワンマン列車だった。これだけ書くと典型的なローカル線のように思われるかもしれないけれど、車内に設置されたボックスシートは満員御礼の状態で、立ちの客まで出るほどだった。中には当然、鉄道マニアも乗り込んでいる。沿線に何か面白い物でもあるのか、数人のグループが時折嬌声を上げながら車内をせわしなく動き回っている。余りみっともいいものではなく多少苦々しく思っていたのも事実だが、彼らは太多線によって中央線と結ばれる美濃太田の駅で車を降りていってしまった。私は自分がそうなので車中の人の多くが18きっぷで高山・下呂方面に向かう客だと踏んでいたのだけれど、考えてみれば岐阜市近辺の人が以前の私のように長野方面に向かおうとする場合には、岐阜駅から高山線で美濃太田を経由して多治見に行くことになるのだろう。美濃太田の駅を出る頃には、車内のスペースには多少のゆとりが戻ってきた。赤の他人と肩を並べて鼻面を付き合わせるボックスシートをわずらわしく思い、好んで通路に立っているらしい者もいたが、望めば座ることもできただろう。

 美濃太田までの鉄道マニアの毒気に当てられた私は、自分の原点を顧みるかのように高山線の車窓から見える国道41号線の風景を眺めながら、北へと向かった。41号線と高山線はほぼ平行して富山まで延びていくのである。既に走破したことはあるのだけれど、いつかは再走の上でこの道のレポートも上梓したいものだ。もっとも、普通の人は国道などには興味を示さず飛騨川が穿った峡谷地帯・中山七里の光景あたりに目を奪われるのだろう。いずれにせよ、総体的に見て高山線沿線の風景はやや単調になるきらいはある。谷間の風景が続き、多少の変化が見られるのは下呂温泉あたりまで進んでからだ。その下呂以北の車窓に広がるのは普通の田園風景で、朝が早かったことも相まって眠気を催してくる。

 高山着は、岐阜を発ってから3時間あまり後の10:09だった。高山で見て回る心積もりがあったのは、飛騨の豪族・三木氏の山上城郭である松倉城と、後にこの地を治めた金森氏の高山城、そして「古い町並み」近辺だった。とても歩いて移動するような距離ではないので、駅前で自転車を借りて移動する。事前に調べたところではこのレンタサイクル、至ってノーマルな普通の自転車と、若干高めの価格が設定されたアシスト付電動自転車の2種類から選べるという話だったのでアシスト付を借りる予定でいたのだが、駅を出るや目に飛び込んできた貸し自転車屋では、電動か普通のかの選択を問われることも無く、ごく当たり前のように普通の自転車を用意された。どうやらネットで事前調べしたのとは違う店舗だったようである。レンタル料だけは同じだったので、価格協定のようなものが近隣の貸し屋で結ばれているのだろうか。ともあれ、おじさんがわざわざモノを用意してくれ、あまつさえ名前と携帯番号まで記帳してしまった後で「やっぱりやめます」とは言えず、ノーマル自転車で松倉城を目指すことになった。

 この松倉城は、高山の市街地からでもかなりの比高がある。チャリンコ地獄旅をはじめとする数々の修羅場をかいくぐってチャリンカーとしての矜持を育てつつあった私が、節を屈してアシスト付を借りるつもりでいたのも無理からぬことなのである。そこにノーマル自転車で挑む羽目になったのだから、その後の惨憺たる展開は語るに落ちるだろう。息荒く大汗をかきながら、数十分の山道を、自転車を押しながら上っていった。参ったことに、山の頂に近づくにつれて路上には融け残りの雪が姿を見せるようになり、道はどんどん悪くなる。考えようによっては、逆にあれだけの坂道・悪路ならば、アシスト付にもさしたる意味は無かったかもしれない。これで城跡が大したことのないものならば目もあてられないことになっていたのだが、この松倉城は、戦国マニアの目から見てもとりあえずは及第点をあげられそうな遺構を残す山城だった。その城跡にも雪が残っていた関係で、危うく滑落死しそうにもなったけれど。

 行きで苦労した分、戻りは高低差百ウン十メートル?かを一気に下る。三十分以上も上り続けていたような気がする道のりも、猛スピードで走り下る自転車の前にあっては、せいぜい5分程で終わってしまった。松倉城の次は高山城に向かうことにする。先に城を片付け、帰りの電車の発車時間近くまで古い町並みをそぞろ歩く方が高山を堪能できるような気がする。

 とは言え、高山城址には特に見るべきものは残されていない。もともとそのことは分かっていたし、お義理で行ったというのが実情である。むしろ高山城址がある城山公園近辺では、有名な荘川桜にゆかりの照蓮寺と、さらにそこに付帯(?)しているらしい福来友吉博士記念館の方に興味をひかれていた。

 記念館は、初代の高山藩主となった金森長近の像が立つ城山公園二の丸付近の直下にあった。一軒家というのも心もとない、そこら辺の民家の離れのような、一部屋しかない小さな建物である。実際に記念館の隣には茶店があり、ここの店主が面倒を見ているのかもしれない。入口は大きく開け放たれていて、入館受付のようなものも無い。入館料がいくらとも書かれていない。ただし、非常に気になる張り紙が存在していた。その紙には、入館禁止対象者の条件が書かれていた。まず子供だけでの入館は出来ない。そして、ペットボトル入りなどの飲料を持っている人も入館出来ない。さらに、記念館から近いところに茶店と売店があるのだけれど、売店の方を利用する人も入ってはいけないのだそうだ。これは、暗に「入りたければ茶店で何か頼め」と言っているのだろうか。私は、「金払え」と直接的な表現で訴えてこなかったのをいいことに、気を使って茶店を利用することも無くそのまま記念館に入場した。一応、件の売店を利用しないことで最低限の仁義を通してもいる。しかし、考えようによっては茶店と売店の間に何らかの確執が存在している可能性も考えられ、そこはかとなく怖い。

 さて、記念館でその事跡を紹介されている福来友吉博士とはいかなる人物か。博士は念写=ネングラフィー研究の権威とされる人物で、実際の念写像や博士の研究に関する新聞記事その他が推定十畳強ほどの建物の中に展示されている。福来博士について個人的には、もともとそういう風変わりな研究をしている科学者がいたという話を聞いたことがあったものの、一般的にはひところの「リング」ブームで多少メジャーになったような気がする。「リング」の看板娘であるところの貞子嬢はさる研究者の下、被験者として念写実験に携わっていたのだけれど、福来博士はその研究者のモデルとされた人物なのである。「リング」劇中の貞子の場合は、博士との間に不幸な出来事が発生しそれが後に発生する恐怖の発端になったのだけれど、そのような経緯まで福来博士の事跡をトレースしているわけではない。一方で、そのあまりに異端的な実験内容のゆえに学会からの非難と批判の嵐にさらされた経緯は福来博士も「リング」も何ら変わるところが無い。記念館の資料は語る。「福来博士の功績が今に至るまで一向に陽の目を見ないは、狭量な価値観しかもてない物理学者たちの奸計によるものである」と。あからさまに怪しい施設ではないので、中途半端な怪奇趣味で見学しに行くのはお勧めしないが、しかし、何か鬼気迫るもののある場所だった。






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