飢餓山城

 路線バスは鳥取駅行きだったが、駅までは戻らずに鳥取県庁のあたりで下車。鳥取城のあった久松山は、鳥取駅からも良く見える円錐状の山で、距離もさほどには離れていないのだが、今は駅までの往復時間も惜しい。秋の夕暮れが迫っている。

 鳥取城は秀吉による「渇殺し」で有名な城だ。そのイメージが強いために戦国時代に役目を終えた城だと思われがちであるものの、その実江戸時代以降も存続し、戦国山城と近世城郭の遺構が共存する珍しい城としても知られている。

 鳥取城の守将であった吉川経家の像の前を通り過ぎて城を目指す。山麓部の、江戸時代以降の城跡部分には県庁や学校が建っており、かつての城地が公共施設の用地に充てられれている様子が分かるが、目立った遺構は水堀と石垣程度か。足を止めてじっくり観賞するほどのものもなく、また前述の通りに日暮れが近いため、その裏山にある中世からの山上の丸を目指す。山頂への道はさすがに中世山城の名残である。黄昏の陽光は木々にさえぎられて登山道にはわずかに届くばかり、おぼつかなくなってきた足下にも神経をすり減らしながらの登山となった。と言ってあまりのんびりと行くことも出来ず、あえぎあえぎ上を目指す。

 秀吉による鳥取城攻めは血で血を洗うような戦いでこそなかったが、その兵糧攻めは凄惨の一語に尽きたと言われる。飢餓地獄がこの世に現出したと伝わるため、何となく本丸あたりにおにぎりの一つも供えて来ようかと思っていたのだが、他に人がいたので断念した。後年まで池田氏の城として使われたためか、古い戦跡の扱いはされていなかったし、従って慰霊や鎮魂のムードは皆無だった。それにしても日没間近のタイミングで登ったのに人がいたことに驚きである。さらに驚いたことに、日は完全に沈み、西の空がわずかに残光で照らされるだけと言う状況になっても、まだ山に入る地元民がいた。下りの道のりで、幾人かの登山者とすれ違った。彼らは電灯もない山道をどうやって歩くのだろうか。山頂にいたおじさんも、歩いて20分ほどの山道を10分強で駆け上ると言っていたし、鳥取市民の鳥取城熱には驚くべきものがある。

 それほどにぎわう黄昏の鳥取城とは対照的に、夜の鳥取駅前周辺は7時を少し過ぎただけで人影もまばら、店も軒並み閉まってしまう寂しい有様だった。日本各地の県庁所在地を見てきたが、間違いなく、鳥取市はそれらの中でもっとも寂れている。ちょっとした衝撃を受けた。

 そんな寂しい鳥取駅前である。宿泊施設も充実しているとは言いがい。いや、ちゃんとしたホテルは一通り揃っているのだけれど、質を度外視したべらぼうに安いホテルというのがない。結局、ビジネスホテルとしては安い部類ながら、いつもの旅行で利用している宿に比べれば若干高めに値段設定されているホテルナショナルに宿泊。部屋は値段相応といえるだろうか。地方都市では民放が2局ほどしかない事も珍しくないが、鳥取では土曜の夜にめちゃイケが放送されていた。普段の土曜と同じように、オカザイルを見てへらへらと笑いながら、鳥取の夜は更けていった。






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