都の京北

 京都-福知山間の移動は、どういうわけか何度も経験がある。まだ18きっぷ歴が浅かったかつての鹿児島行きの帰りにも姫路から無駄に福知山方面へ回って京都に回ったし、それ以降も幾度か山陰の入口であるこの地域にはやって来た。もっとも、いつもいつも通り過ぎるばかりで途中のどこかに立ち寄った記憶と言うのはあまりない。ただ一つ確かな事は、何度来ても京都府のこの地域から京都市街までの遠さには慣れないということだ。

 昼ごろ、京都駅に着く。ここから現在は京都市右京区となった旧京北町にある周山城を目指すわけだが、時間に多少の余裕があったので、世界遺産となった龍安寺に立ち寄っていくことにする。石庭があまりにも有名なお寺で、過去にも訪れた事はあるのだが、なぜだか時には直球ど真ん中の観光地に立ち寄りたくなるのである。日本文化が誇る侘び寂びの世界を体現したかのような龍安寺は、しかし国際色も豊かな多くの観光客でごった返し、枯山水の庭を前にして思索にふけるとかそういう雰囲気ではなくなっていた。これまた有名なつくばいの周りにも多くの人が立ち止まり、カメラや携帯を手に手にこれを撮影している。本当に人だらけだ。まあたとえ境内が静謐な雰囲気に保たれたとしていても、自分が大した思想家だとも思えないし、庭自体の有名さもあいまって、実物を目の当たりにすればもちろん素直な感動もあるのでそれで良いのだろう。

 何だかんだと言いながらも1時間ほどは龍安寺を散策したあと、再び路線バスで京北町方面を目指す。門外漢である私が抱く京都市の北方地域のイメージは曖昧模糊としている。どうも京都から北に向えば丹波地方に出てしまいそうな感覚があるのだが、実際は山また山を越えて若狭に出るのが正解だ。冷静に考えれば当たり前の話なのだが、周山城は京と若狭を結ぶ街道の途上に、明智光秀によって築かれた。もちろんこの選地には、そこが交通の要衝と言う事があったのだろう。しかし、現在の若狭地方はいわゆる過疎地の範疇に含まれる地域になってしまっており、かつてはそれなりに重要な路線だったと思われる旧街道をバスに揺られながら北へと向っていくと、次第に人家もまばらに、山深くなっていく。木が着けば周囲の山々は人工的に植林されたと思われる杉木立に覆われるようになっていた。純自然の光景ではないのだけれど、心現れる何かがある。このあたりが有名な北山杉の美林と言う事になるらしい。そんな道のりを1時間ほどもかけ、バスは京北町の中心部にたどり着いた。一人、また一人とバスから減っていく乗客の姿と、ついには車内に運転手と二人きりになってしまった状況に、目的地が何もない辺境の地だったらどうしようと不安になったものだが、京北市街は山の中にしては思ったよりも開けている。道の駅?があり、そこに人が集まっているだけでも随分と印象が違うものだ。

 周山城址は道の駅ウッディ京北から程近い山上にある。この城山も現在では杉の植林が行われており、雑木林のそれとは違う直線によって構成された林間を縫いながら山頂を目指す。そういった事情があるので登山道と言うか踏み跡はしっかりしているのだけれど、ハイキングコースとして整備されていると言うよりはやはり林業従事者の移動路として利用されている感が強く、観光登山道のような親切さはない。道中には山頂までの案内看板なども乏しいし、変に滑りやすいくせに絶壁に近く思える斜度の坂道もあった。ついでに言えば、どこが旧城址の曲輪かと言った説明も少ない。何となく歩きづらさを感じる道のりをいきながらどうにか本丸跡まではたどり着けたのだが、石垣などの遺構が良好に残されているという曲輪を隅々まで見学する事が出来ないまま下山する事になった。要は、根本的にその存在に気付かなかったのである。

 復路。往路と同じだけの時間をかけて京都駅を目指す。京北町から京都駅を目指すバスは、それでも1時間に1本程度はあるので、案外スムーズに帰途につくことができた。山道を歩いている時よりも、歩みを止めてひと心地ついたときに疲れが押し寄せてくる。帰りのなバスの中、今日土産に八橋とか京漬物とかかって帰ろうかという気分になりかけたが、押し寄せる疲労の波と、自分が現代的美意識と雅が同居する京の都にはあまりに不似合いなドロドロの形をしている事に気づき、駅に着くや、そそくさと逃げるように京都を離れた。とは言え、山科にある、もはやこれは城郭跡といっても良いだろう、山科本願寺跡は見学していった。別に京都の中心部には暗黙のドレスコードが存在していて、山科にはそれがないというつもりではなかったのだが。






さようなら余部鉄橋 TOP








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