■八百津 12:00
 今回肝心要のレポート対象になる区間は既に始まっていた。

 八百津町は、第二次世界大戦の頃のリトアニア副領事・杉原千畝の出身地である。彼の功績を日本のシンドラーと讃える向きもある。八百津町のホームページでは次のように紹介されている。少々長いのだが、引用させていただくと

 …ナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。
 このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。
 「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人問としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました。


 ところが最近、彼の行為を巡って右と左(傍目にはそう見える対立両陣営)で喧喧囂囂の議論が戦わされているらしいのだ。焦点は「杉原の行為が日本政府の方針に従うものだったか否か」。杉原関連の多くの書籍では、上記の記事同様に外務省の方針に反し独断でビザを発行し続けた信念の人として紹介されているのだが、その一方で「一外交官がビザを発給したとしても、それが日本の国策に反するものだったらそもそも入国はかなわないはずである。ところが当時の日本政府はユダヤ人を受け入れたのだから、杉原の独断だけで成し得たものだったのか?」という声があるらしいのだ。確かに一定の説得力はあるような気がする。

 ただ、あまり深入りしたくはない話題でもあるのだ。どうもこの手の論争はいけない。傍らで眺めているだけでも疲れる。それに比べてこの八百津町の風景はどうだろう。典型的日本の山村を思わせるのどかさで、大袈裟ながら心が洗われるようだ。神社仏閣の多さが古い村落共同体の特徴を思わせる。それでいて美濃加茂市から自転車でさえ一時間ほどで移動もできる場所に位置している。車さえあればまず名古屋圏と言ってもよかろう。冬場寒そうなのは玉に瑕だが、八百津町内にセカンドハウスを持ったりするのも良いかもしれない。20台も後半に入り、老後は長野県の山口村(間もなく岐阜県中津川市に吸収合併)あたりで隠居しようと思っていた矢先なだけに、爺むさいことを考えた。杉原に味噌をつけるようなことを書いた罪滅ぼしの意味も多少はあるが、それを差っ引いてもなかなかいいところである。

 名鉄八百津線の廃線は逆風だが、町内には西友もサークルKもある。酷道418号線のイメージがあるので必要以上に片田舎のイメージがあるが、日常生活に支障をきたすほどのレベルではない。一方で昔ながらの個人商店ではヘボ(蜂の子)を売っていたりする。今と昔がかなり微妙なバランスの中に同居している印象を受ける。

 そう言えば418号線レポートの中にも書いたが、住宅地の外れ近くまで猿が出てきていた。これに関してはあまりのんきなことも言っていられないような気がする。普通に考えれば、人間が猿のテリトリーを圧迫しているためにこのような事態が発生しているのではあるまいか。猿というのは結構イタズラ者だし、住民にしてみても生活圏に猿が入り込んできているのはそう楽観ばかりもしておれない気がする。それとも、うまく折り合いをつけているのだろうか。気になる。

 予想さえしていなかった猿の出迎えに、酷道アタックへの意気込みは、否が応にも高まっていく。

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