■恵那 15:00
 酷道418号線は、私の戦う気力をむしり取って行ってしまったようだ。

 酷道を走っていた時間は、計算上では1時間強。距離にすれば10kmあまり。酷道の反対側、すでに頭の中には靄がかかったようになってしまっているが、死にかけた脳細胞を叩き起こして八百津にいた辺りからのタイムテーブルをもう一度思い描いてみる。八百津町内は、事前に想定していたのよりは若干広かった。というより、高低差が予想外にあったため、平地移動の時のようにスムーズに動く事ができず、町外れにある丸山ダムを通り過ぎたのが結局13時過ぎ。そこからさらに上りがあったため、酷道区間に突入したのは20〜30分ばかり後の事になるはずだ。そして、酷道に入ってからのどこかで携帯の液晶に表示された時間を確認した。そのタイミングが13時30分過ぎ。そこから先の見えない酷道を延々と走り続け、15時前には酷道を抜けたのだから、ここまでの時間経過の把握には何らの問題はないはずである。

 なのに、この疲労状態はどうだろう。国道とは名ばかりの絶望的な悪路であったことは確かだ。しかし、自転車で1時間ほど走っただけでこれほどの疲労を背負わされることになるとは夢にも思っていなかった。ジョーとの対戦を終えたホセも、きっとこんな感覚を味わったのだろう。

 かてて加えて、この坂である。東濃地区の木曽川は、台地を抉り、深い峡谷を作りながら流れている。それは恵那市内とて例外ではなかった。首の皮一枚で酷道区間を征服し、武並橋を通って木曽川の左岸に渡った私の目の前に立ちはだかったのは、絶望的な高さの山壁だった。事前にゼンリンの住宅地図を見て、等高線の間隔からおおよその斜度と高さは掴んでいるつもりだったが、私は、自分自身の地図を見る目が意外なほどに当てにならないことを、身をもって痛感させられた。川面から山の頂までの高低差は80m前後と踏んでいた。これはおそらく正解に近い読みだったのだろう。しかし木曽川に正対する山の斜面はほとんど絶壁に近い。直登にすると車では登れない斜度になるのだろう、418号線は左右にうねりながら高度を稼いでいる。坂を登りきるまでの実走距離が思いのほか長い。携行した1:10,000ロードマップが曲者だった。この地図では、実際の道路の蛇行がほとんど表現されていない。車で走る場合にはほとんど問題にならない、誤差の範囲のカーブなのだろう。実際、坂道で私を追い越していく車、すれ違っていく車は、コース上に存在するカーブなど意にも介さない調子で走っていく。

 息はすでに上がっていた。顔が上がらず、視線はひたすら地面の上を這っている。もちろん、自転車をこぐ余裕など、ない。坂を登り始めて十数mでさっさと自転車を降り、手で押しながら坂を歩き登っていた。私は、他の車がものの2分もかからずに上りきってしまった坂を越えるのに、30分ほども時間を費やしてしまった。喉が渇く。酷道突入前に買っておいたアクエリアスは、ペットボトルの中でほぼ底をついていた。酷道を過ぎれば後はどうにかなるだろうという認識の甘さが招いた結果だった。近くには、民家がまばらにあるだけだ。商店は愚か、自動販売機すらない。いっそ、近くの家の戸を叩き、一杯の水でも乞おうかと思ったが、怪しげな風体の男が鬼気迫る様子で家を訪ねてきても、決して応対には出たくないと考えるのが人情だろうと思い、その思いつきは実行しないでおいた。

 途中で一度自転車を止め、善後策を考えた。この坂を登りきり、その後またしばらく走って国道19号線に合流したとしても、そこから名古屋まではまだ、ゆうに60kmはある。今のこのコンディションでは、それだけの距離を走りぬくのは絶対的に不可能だ。幸い19号線の近くにはJRの中央本線が併走している。適当な駅に自転車を乗り捨て、今はとりあえず身一つで家に帰り、明日にでも自転車を取りに来よう。そう考え、自転車を一時預ける駅の選定に頭を悩ますこととなった。最寄り駅は「たけなみ」。ひとつ名古屋側に進むと「かまど」。二つとも、いかにも小さそうな駅だ。電車は止まるのか、そもそも自転車を置いて置けるようなスペースがあるのかどうか、甚だしく疑問だ。「かまど」よりさらにひとつ進むと「みずなみ」。瑞浪市である。ここなら電車本数と自転車置き場の問題はクリアできそうだ。とりあえず、ここまでは死力を尽くして走ろう。

 そう考えて再びぼろのような身体を引きずりながら歩き始めた、まさにその矢先。目に鮮やかなコカコーラの赤い自販機が視界に飛び込んでいた。疲労は人を視野狭窄に陥らせるらしい。指呼の距離にあるそれに、今の今まで気がつかなかった。よたよたと駆け寄り、自販機の中に収められている飲料のラインナップを確認する。コーヒーが中心で、やはりコーラやファンタあたりも入っている。私の目はその中でも、「Qoo さわやかりんご」に釘付けになった。今は是が非でもこれを飲まなければならない。本能があらん限りの大音声を挙げて、そうメッセージを発しているような気がした。「ビタミン」という単語が脳裏をかすめる。そして、小学校給食の啓蒙活動で知った「ビタミン=からだの調子を整えるもの」という、予備知識も。今こそその「からだの調子を整える」時なのだ。今整えなくて、いつ整える?というより、今このタイミングを逸すれば、死ぬ。私は震える指で120円を投入し、「Qoo さわやかりんご」を購入した。

 さわやかなりんご味の甘ったるい液体が喉を通過する。パッケージでは「オリゴ糖がどうの」と謳っていたような気がする。とにかく、なにやら身体によさげなものを、今、私は摂取している。その思いが私を上気させ、そして、奇蹟を起こした!

 疲労の極みに達し、老婆のように曲がっていた腰が自然とまっすぐに伸びた。第六感を通り過ぎてセブンセンシズに目覚めてしまいそうなほど鈍磨していた五感も、蘇ってきた。と同時に、今まで脳への情報の流入が遮断されていた、いかばかりかの肉体的苦痛も蘇ってきたが、そんなものは気力横溢の状態を取り戻した今となっては、まさに蚊に刺されたほどの痛痒にも感じない。

「行ける!これなら名古屋まで行けるかもしれない!」

 ふいに視界が明るく開けてきたような気がした。気がつけば上り坂も終わりに差し掛かろうとしていた。

 19号線へと向かう長い下り坂の途中、私は「走れメロス」を思い出していた。途中グダグダになりかかったメロスは、清水か何かを飲んでやる気を取り戻していたが、太宰治はもしかすると、極限状態での水分摂取が人体にもたらす奇跡的効用を承知していたのかも知れぬ。何はともあれ、「待っているが良い、セリヌンティウスよ」と考えると胸が熱くなった。若干方向性が変わってきている自覚もあったが、スピン気味のセリフにブレーキはノーサンキューである。

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