■内津峠 19:00
 恐るべき退廃に蝕まれつつある中、ふと、一つの事実に気がついた。

 昨夜の夕食から今まで、固形物は一切口にしていない。朝食を食べている余裕はなかったし、昼はカフェオレで済ませた。この偏食自体はいつものことなので、あまりにも普通に過ごしてしまっていた。普段はこのような食生活であっても問題なく過ごせるのである。しかし、今日のこの自転車旅のような極限状態にあっては、さすがに自堕落な習慣のほころびが露呈してくるようである。

 今一つ、試してみるべき事がある。それをやらずして死ぬというのは、敵前逃亡にも等しい行為だ。

 ここまで、「Qoo さわやかりんご」が生んだセリヌンティウス効果があまりに劇的だったため、水分摂取偏重傾向が生まれてすっかり失念していたのだが、清涼飲料程度では大してエネルギーは摂取できまい。しかも、19号線に出てからはスポーツ飲料・アクエリアスなどと言う、いかにも熱量の低そうな飲み物ばかり飲みながら走ってきたのである。

「まだだ。まだ終わらんよ。」

 かばんの中には、アクエリアスなどおよびもつかない高熱量を誇る食品が入っている。遭難時のために用意してきたチョコレートである。立ち上がり、再び歩き出しながら、寒さに震える手でチョコレートを取り出し、乱暴に包装紙を破る。「はがす」のではなく破る。細かい紙片が大量に出来上がり決してきれいなやり方ではないのだが、そんなことを気にしている余裕はない。さらにその中から出てきた薄いアルミ箔がうまく破れない。いわゆる板チョコである。そこで、あらかじめ中のチョコレートを折っておき、中身を捻るようにしてアルミ箔もねじ切った。

 「明治ミルクチョコレート。純粋な味わいを求めて原材料を選び、伝統のおいしさに磨きをかけた、永遠のピュア(純)チョコレートです」。今改めてくだんのチョコレートを手にしてみると、こげ茶色の包装紙には黄土色の文字でそう書かれている。「チョコレート一口メモ」として「チョコレートは、ポリフェノールを多く含んでいる食品の一つです」ともある。実に嘆かわしい。今の日本人は、チョコレートを食べられただけで幸せな気分に浸れた「ギブミーチョコレート」の頃の精神を思い出すべきである。ポリフェノールだのなんだのと、そんなあるある大事典かおもいッきりテレビのアジを真に受けたような宣伝文句をありがたがらずとも、チョコレートはすばらしい食品なのだ。一口食べれば数時間は連続して活動できるほどのハイカロリー。そうだ、今肝心なのはカロリーであり、それこそチョコレートの真骨頂なのだ。注目すべき「主要栄養成分・エネルギー」はなんと、1枚あたり395kcl!何でもないときに無茶食いすれば、太るはずだよチョコレート!

 しかし今はこのハイカロリーが頼もしい。むさぼるように口へと運ぶ。「はだしのゲン」では主人公の元が、アメちゃんからもらったチョコレートを実にうまそうに食う場面があったが、今の私もそれに近い風情でチョコレートほおばっているに違いない。

 わかる!チョコレートの中に眠っている大火力が私の中に流れ込んでくるのが分かる!衰弱しきった身体が、突然体内に入り込んできたハイカロリーにビックリしたのだろうか、口の中には原因不明の血ぶくれまで出来る始末。鼻血が出ると言うのはよく言われるが、これもチョコレートの影響か。全身の血が沸き立っているのかも知れぬ。とにかく、これだけのエネルギーがあればやれる!やぁってやるぜ!ぶっこ抜いてやる!内津峠!

 しかし、ハイパーセリヌンティウスとでも呼ぶべきナチュラルハイ状態に突入したその矢先、前方にトンネルが迫っていることに気がついてしまった。何だか拍子抜けである。最近の峠道は普通、トンネルを抜いてしまえば後は下り坂が始まるようになっている。せっかくのエネルギーが活躍の場を奪われたようで、少し、悲しい。事実、内津峠もトンネルを越えると長い下り坂がはじまった。

 下り坂に入っても、ペダルを漕ぐ脚を緩めない。自転車とはいえど、恐るべきスピードが出ているのが分かる。途中、沿道の立ち木が歩道にまで枝を伸ばして行く手を遮るようになっている個所があり、真っ暗で前方が見えなかったこともあって、もろに突っ込む。ちょうどその枝が顔のあたりにぶつかった。左眼窩の少し下あたりに枝を引っ掛け、切り傷が出来た。手で拭ってみると、出血しているのが分かる。下手をすれば目がやられていたかもしれない。しかし、いまさらそんな事態が発生したとてかまうものか。アレキサンダー大王は、絶好調時に雨のように屋が降り注ぐ戦場をおもむろに駆け抜け、かすり傷一つ負わなかったと言う。今の私は、多分それだ。

 手におえないナチュラルハイ状態に突入し、坂を下りきる。以前、19号線ドライブに挑んだ時の感覚だと、峠道が終わってもしばらくの間は何もない田舎道になっていたはずだ。だが、もう坂道はない。暗いだけの平坦な道である。山場があるとしたら潮見坂平和公園あたりだけだろうと踏んでいたが、平和公園付近のアップダウンも、勢いでどうにか越える事ができた。坂を下りきると、春日井の街明かりが見えた。ここから名古屋までは、ただひたすらに平坦でまっすぐな、栄光のロードが続く。

 ここまでの総走行距離は概算で100km強。この道のりを、誰の力も借りることなく、一人で走破しようとしている。これを成し遂げれば、私の器は大きく広がるような気がする。100km強。文字化してみると案外大した物ではないような気がする。トライアスロンの選手でさえも、もっと短時間で長距離を走っているのではあるまいか。否、奴らは競技用の、走るために作られた自転車で平坦な道を走っているに過ぎない。こちとら、ママチャリで酷道や長い長い坂道を越えてきているのだ。実走距離は100kmを少し越える程度だが、心情的にはここへさらに4、50km程度上乗せしても良いだろう。もう理論も理屈もあったものではない。上気した頭で、ひたすら自分に有利な条件ばかりを列挙していき、脳内ではついにプロのアスリートにも勝利してしまった。おそらくこれが、ランナーズハイというやつであろう。

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