金沢を歩く

 翌朝。旅行最終日。今日は一日かけて名古屋に戻れば良い。もっとも、金沢から名古屋まで、普通に帰るだけなら1日もかかるような距離ではない。特急なら3時間で行くところだが、鈍行でも寄り道しなければ5時間ほどで帰り着ける。朝一番に金沢を発てば、昼過ぎには名古屋に戻っている計算になるわけだ。もちろん、それほどまでに先を急ぐ理由もなく、金沢を発つまでに少し市内の観光をして行くことにした。

 今回、形式的なものとは言え「利家と待つ」をテーマに旅している。「利家」は言うまでもなく、加賀百万石の始祖・前田利家のこと。「待つ」は本数の少ない田舎の鈍行を待つ時間のことをイメージしている。待つ方はともかく、利家は基本的には金沢にしかいないため、まずは利家にちなんだ尾山神社に参拝。金沢の歴史を紐解く上ではそれなりに重要な意味合いを帯びてくる神社なのだけれど、神社としての格が高いわけでもなく、史跡として、あるいは文化財として希少な価値があるというわけでもなく、観光客がそれほど目を惹かれるような神社でもない。明治の初めに立てられた門は中国風の意匠にギヤマンが使われ、無国籍な雰囲気を漂わせているが、それ以外は特にこれと言うものもないのが正直な感想である。さすが利家を祭神とする神社だけの事はあり、境内には母衣を着けた利家の像がある。赤母衣衆として信長に仕えた若き日の利家の姿をかたどったものなのだろう。これをパシャリ。その後は白鳥路下から橋場町へと抜け、浅野川を渡り、卯辰山麓を経てひがし茶屋街に移動。

 ひがし茶屋街は、2001年に国の重要伝統的建造物保存地区に指定されたのだそうだ。その頃はまだ金沢に暮らしていたはずなのだが、すでに卒業に向けて実家と行き来する暮らしが始まっていたのか、そういったニュースを聞いた記憶はほとんどない。同時期には、ひがし茶屋街からさほど離れていない地区で「主計町」という藩政時代からの町名が復活すると話題になっていたが、近辺の観光シフトはその頃から始まっていたのかもしれない。

 ひがし茶屋街周辺は、東金沢方面への行き来の時、幾度となく自転車で走り抜けたことがある。その頃から古色蒼然とした町並みは残っていた印象はあるのだが、果たして観光地として売り出すほどのものだったかどうかはあまり覚えていない。その意味で、どこか半信半疑のような心持で再訪したのだけれど、これが驚いたことに立派に観光地をしていた。確かに、「江戸の茶屋建築の様子を今に伝える」と表現するのに相応しい家並みが存在していた。もっとも、現在のひがし茶屋街は、古い雰囲気はあるのだけれど建物に使われている建材などはかなり新しく、建ち並ぶ家の全部が全部江戸時代から残っているものではなさそうだ。古い家を基準に、町全体をそれに調和させたのだろう。それにしても、狭い道路に面して、一枚の壁のように隙間なく建ち並ぶ家々によって閉鎖された空間はどこか息が詰まるようなものがある。平日午前ということもあり観光客の姿も住人達もほとんど見当たらず、巨大な密室のようで心細い。それにしてもこの様子では、町内で火事が出たりすると消防車は入って来られるのだろうか。余計なお世話だろうが、住人達の生活を案じてみる。

 茶屋街を流すだけ流して、金沢駅に向う。途中、浅野川に沿って復活した主計町の方も歩いてみる。金沢市内を流れるもう一つの川・犀川を渡った野町の方にはにし茶屋街もあるのだが、今回はパス。まあ、にし茶屋街に行くつもりなら片町のサウナを出たその足で直行するべきところだが。

 金沢を出た後は、乗り継ぎの関係で福井駅にていったん下車。城に立ち寄り福井の地名の起こりになったともいわれる福の井でも見ていこうと思ったが、時間が折り合わず何となく途中下車しただけで終わってしまった。その後敦賀駅まで進むも、敦賀から長浜・米原方面行き普通列車の接続が著しく悪く、鈍行移動を断念。せっかくやって来た「利家と待つ」機会をふいにして特急しらさぎに乗り込み、米原駅まで進んだ。気の利いた待合室もない敦賀駅で暑い夏の昼下がりを数時間過ごすのは余りにも無謀だった。







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