天変地異

 2011年3月11日という日は、日本の歴史上、忘れられることのない日となるのだろう。翌12日には九州新幹線の全線開通を控えており、本来ならばこれがこの時期のトップニュースとなるべきイベントだったし、それがために、私もこのタイミングでの鹿児島旅行を企図したものだった。しかし、新幹線の開通をはじめとした諸々のニュースは、同日の14時46分頃、東北地方の太平洋沖を震源として発生した未曾有の巨大地震により、雲散霧消することとなる。後に発表された地震の規模は、マグニチュード9.0。世界の観測史上でも最大規模の地震だった。

 思えば、自然災害に翻弄されることを宿命付けられた旅行だったのかもしれない。最終的には鹿児島旅行ということに落ち着いた2011年春の18きっぷ旅ではあるが、元々は宮崎・鹿児島を主戦場とする城廻りの旅になるはずだったのだ。それが、宮崎をオミットすることになったのは、年明け頃から活動が活発化していた、新燃岳の噴火の影響に他ならない。しかし、宮崎を回避してもなお、地震という大地の異変に見舞われることになろうとは。

 地震の規模は、発生から間もない時期は、後に判明した9.0よりは小規模の、8.8と推定されていた。この一件に限らず、地震のあった11日中は、被害状況その他に関する情報は入り乱れ、おそらく日本中の誰一人として、地震の全容を掴めていなかったのだろう。加えて、夜から九州に旅立つ予定でいた私は、ろくにテレビなどの報道を見ることもできず、「ひょっとすると数百人から千人程度の死者が出るのだろうか」などと考えながら、名鉄バスセンターに立っていた。バス乗り場には、震源地に近い仙台市へ向かう便と、間接的にではあるが、大きな影響を受けているらしい東京新宿への便を運休とする旨の告知が貼り出されていた。当然と言おうか、東北とは反対方向になる九州便への影響については言及されていなかったが、何となく重苦しいものが、心に兆し始めていた。

 名鉄の夜行バス「どんたく号」は、ひた走りに西へと走ったが、その途上の高速道路で幾度か、けたたましいサイレンを鳴らしながら東へと走っていく消防車両の群れとすれ違い、その都度、浅い眠りを覚まされた。被災地への支援であろうことは容易に想像できた。眠りを妨げられた不快感よりは、戦地に赴く彼らの姿に胸が熱くなるのを感じると共に、容易ならざることが起きていると言う予感が、勃然として芽生えていた。






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