諏訪路彷徨

 最終日。甲府から名古屋に帰るだけなら、半日コースだ。過去には鶴舞と新府の往復を1日でやってのけたこともあるが、その程度の距離感である。まっすぐ帰れば、時間を持て余すことになるだろう。

 今日は、茅野の駅で下車するだけの予定だ。ただし、その先でですることは二つある。諏訪の名族・諏訪氏の居城である上原城を攻略すること。そして八ヶ岳山麓にある縄文遺跡・尖石遺跡を見学することだ。

 上原城の主だった諏訪氏は、諏訪神社の神職の一族である。その領地である諏訪地方は、武田氏の支配する甲斐と隣接していたため、戦国時代においては、武田氏との離合を繰り返した。信玄の父・信虎は、諏訪氏と幾度か干戈を交えた後、主目標を佐久の攻略に切り替えたため、その娘を諏訪氏に輿入れさせていたが、信玄の代になって方針の変更があり、ついに諏訪氏は滅ぼされてしまった。

 上原城は、諏訪氏の城ではあったが、諏訪氏が武田氏に対して最期の抵抗を示した城と言うわけではない。戦闘拠点としてどの程度の威力があったのか。信玄の計略の妙もあって、それを発揮することはなかった。

 城跡としては、大堀切や土塁などが残る。山城だが、車道が通じているため、車でのアクセスも容易である。ただし、茅野駅からの徒歩を考える際には、この車道が少々長い。山腹を直登し、金比羅社を経由する徒歩道の方が、経路に迂遠さはないと言える。山麓の板垣平には、諏訪氏の居館跡もある。板垣平という地名は、諏訪氏の後を受けて諏訪の郡代となった武田の家臣、板垣信方にちなむ物だと思う。

 茅野駅から上原城まで、ざっと2時間コース。行って帰ってくる頃には、尖石行きのバスが茅野駅前に来るだろうと言う計算で動いていたが、果たしてほぼその読みに近いタイミングで、バスがやってきた。ここも相変わらず登山者装の客が多いが、幸い座席に座ることは出来た。車内は結構な混雑度合いである。

 暫時、バスに揺られる。茅野、と言うよりは蓼科周辺は、子供の頃の家族旅行でしばしば来た事のある地域だ。土地勘と言うほどの物でもないが、何となく見覚えのある場所も多い。そうした中、バスは尖石遺跡に近づいている…はずだった。しかし、「縄文のビーナス出土場所まで云々」の看板を見かけたのをピークに、雲行きが怪しくなった。どうもこのバスは、系統はともかく尖石遺跡には立ち寄らない便なのではないか。

 いやな予感は的中した。車内のパンフレットを見る限り、終着駅が横岳方面であることは、予期していたバスと同じなのだが、通過停留所から推して、どうやら尖石はパスするコースを走っている。このまま、バスに乗り続けても目的地に就くことは永遠にない。時間的に、尖石への復帰も絶望的だが、どこかでバスを降りることを考えなければならない。終着である横岳ロープウェイまで行っても結果に大差はないのかもしれないが、下手に遠くまで行くと戻りのバス便が捕まえられなくなるかもしれないし、何と言っても運賃がかさむ。

 「あーんもうどうしよう…アーモンドしよう!」てなもんである。途中の蓼科湖で下車することにした。

 蓼科湖は、昭和20年代の終わりに作られた灌漑用の人造湖である。今では蓼科エリアのレジャースポットの一つとなっており、子供の頃には何度か来た事もあるが、今、大人になって来てみると、白樺湖などとは違い、どうと言う事もない小さなため池に見える。夏の盛りを過ぎ、高原避暑地としての賑わいが去ったせいかも知れない。ただまあ、それがためか、ずいぶんとのどかな空気だけは流れていた。

 ここ蓼科湖で、戻り茅野駅行きのバスがやってくるまでの時間は約1時間。基本的にはこれと言ってすることもないため、手持ち無沙汰の時間が長くできてしまった。ぼんやりと周りの景色を眺める。近くの木立の隙間から、蓼科山と思しき山が見える。本来であれば諏訪冨士とも呼ばれる端正な立ち姿の山のはずだが、頂上付近が雲に覆われているため、山体は満足に見えない。ただ、この三日で多く出会った登山者姿の人たちではないが、来シーズンにはこのエリアの山に挑戦してみるのも良いかもしれない。こうしてここに来てみると、思ったよりはアクセスが容易である。






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