先史への誘い

 吉野ヶ里歴史公園の最寄り駅となる、その名も吉野ヶ里公園駅は、JR長崎本線の駅である。特急は停まらないが、比較的列車本数の多い鳥栖‐佐賀間にあるため、アクセスは容易だ。長崎本線自体は、その名の通り長崎駅を終点とする路線で、これまでに数度、長崎を旅している私は、当然吉野ヶ里駅も幾度か通り過ぎている。のみならず、公園を目指して下車したことも一度ではないのだが、見学のための時間が十分でなかったり、時ならぬ雷雨のために公園が閉園となってしまったりで、実際に公園を訪ねたことはない。が、今回は無事の入園を果たした。

 弥生遺跡としての吉野ヶ里遺跡は、今から20年余り前の昭和61年(1986)に発見された。もともとは、周辺一帯を開発するための予備調査から発掘が始まったのだが、遺跡としての規模があまりにも大きかったため、ついには国営歴史公園として整備されることになったのだそうだ。

 その規模の大きさゆえ、全国的に注目を集めるようになった90年代初頭には、北九州説の支持者を中心に「邪馬台国の遺跡なのではないか」とも言われたが、現在はライバル奈良県(大和)でも大規模な墳墓などが発見されたことがあって、邪馬台国云々については、かつてよりトーンダウンした感じである。しかし、濠と防柵を巡らせた一個の環濠集落としては、抜群の規模を誇るのも事実で、日本城郭協会が選定した日本百名城の一つに、狭義での城郭建築ではないながらも、日本の城郭的なるものの嚆矢として、リストアップされている。

 公園の公式ホームページを見ていると、「お勉強」と言うか、子供向け学習施設の雰囲気が濃密に漂っており、いざ現地を訪ねてみたら知名度の割に客が少なかったりするのではないかとも思っていたのだが、駅で降りた時点ではそのような雰囲気ではなかった。降車客は少なからずいるし、風体を見る限り、私と同じように公園を目指す人が多そうだ。と言うより、水田以外にはこれと言って目指すべき施設のないような駅前である。

 もっとも、客の多さには裏もあるようで、たまたまJRのウォーキングイベントが開催されていたらしい。JR東海が行っている同種のイベントの例に倣えば、「参加費無料・現地集合」のイベントのはずなので、飛び入り参加できなくもなさそうだが、結局いつも通り一匹狼であることを選んで、公園入口に立った。入園料は400円。全く関係ないが、園の入口で、この周辺が雷の多い地域であり、落雷の危険がある場合には閉園措置をとる場合があるという断り書きを見つけた。となれば、前回私がこの地を訪ねた時、悪天候のため当初の目的を果たしえなかったのは、ある意味では必然だったと言うことになる。

 開園後、まだそれほど経っていない時間だったこともあり、少し待てば無料のガイドによる園内ツアーが始まると言う話だったが、マイペースを愛する私は、ここでも単独行動を選び、いよいよ園内へ。最前のツアーの例に顕著なように、こちらの公園では、弥生時代の生活に関する生涯学習の類に力を入れているようだ。いかにも体験学習然としたものから、ちょっとしたお遊びの要素が強いイベントまで、色々な企画が告知されている。中には、弥生人の扮装をして園内を見学すると言うプランでもあるのか、3〜4人連れの弥生人が園内を歩いているのを見つけて、面食らったりもした。一人は槍で武装し、顔にも装飾を施していたが、他の面々は弥生風装束を身につけながら、どこか所在無さげに兵士の後を着いて回っていたので、兵士がガイド役の職員で、着いて行ったのが来園客だったのだろう。

 園の中心となる環壕集落ゾーンは、さらにいくつかの区画に分かれている。大まかには、日本各地に良くある比較的大規模な弥生遺跡という雰囲気の、身分の低い人々が暮らしたムラがあり、政治的指導者が暮らした南内郭があり、種々の祭祀が行われ、それを取り仕切ったシャーマンが暮らした北内郭があると言ったところだ。この他、発掘品の展示を行う資料室、身分の低い人たちの集団墓地、王族級が埋葬された北墳丘墓などがある。まずは資料室で吉野ヶ里のアウトラインを掴んでおいて、いよいよ南内郭へ。

 南内郭は、環濠と柵で形作られた広場の中に展開されており、見るからに古代の住居と言う雰囲気の竪穴式住居が並ぶ他、広場の出入り口には、3階建ての民家程度の高さはある物見櫓(見張り台)が復元されているのが目を引く。他の弥生遺跡ではまず見たことのない復元建造物で、まがりなりにも名城百選の面目躍如と言ったところか。

 この南内郭に入ったところで、ガイドスタッフのおじさんに声をかけられたので、せっかくだからガイドをお願いすることにした。おじさんに着いて櫓に登ったりしながら、吉野ヶ里遺跡に関する説明を聞く。おじさんが強調する吉野ヶ里遺跡最大の特色は、意外にもその規模の大きさではなく、身分の差が顕著に現われた、クニと呼べる政体を形成したことがわかる遺構の数々だった。なるほど、弥生時代と言えば稲作が始まり、各自が耕す田畑の生産性の差がそのまま地主の貧富の差となり、やがてはそれが固定化された身分の差へと変化していった時代だと説明されるが、それが実感として分かる弥生遺跡というのは、ついぞ見たことがない。おじさん曰く、復元された王族の住居は、基礎部分を元にそのサイズを推定し、一般の人々が暮らしたそれよりも大きく作ってあるというし、何より園内の北方にある墓所は、埋葬された人に歴然とした身分の差が存在したことを雄弁に物語っているのだそうだ。

 おじさんはいろいろ話してくれたのだが、それにしても弥生遺跡に不釣合いな、この背の高い櫓が気になったので、実際に往時にはこれだけの櫓が築かれていたのか尋ねてみると、正確なところはわからないが、これまた基礎の遺構から推定しておおよその高さを決めたのだと言う。実際がどれほどの高さだったかは誰にも分からないというのが結論だったが、ここから話が面白い展開を見せた。実際そんなものがあったのかどうかは分からないという意味で言えば、園内いたるところに存在する竪穴式住居も、本当にこのようなものが築かれていたのか確証はないのだそうだが、静岡のつとに有名だった弥生遺跡が、このような形態の住居を復元・公開し、それが有名になってしまったため、それとは全く趣が異なるものは推定復元さえ出来ない状態になっているのだそうだ。ちょっとした裏話である。

 おじさんと別れた後は北内郭へと移動。前述したとおり、ここはクニの祭礼を取り仕切るシャーマンの暮らした区画で、それこそ卑弥呼ではないが、彼らの身分は王族の上位に置かれたのだそうだ。そうした流れの中でも、吉野ヶ里こそが邪馬台国であるという言説は露ほども出てこなかったが、園内に復元されたいかなる建物とも似ていない、高床式の巨大建造物は、明らかに異質な存在で、非常に印象的であった。

 さらにその後は墳丘墓の内部を見学。青森の縄文遺跡・三内丸山遺跡にちょうど同じような雰囲気の展示があったが、遺跡発掘現場を、発掘当時のような雰囲気のまま保存してある施設である。墳丘の内部に入ると、ちょっと高温で湿度が高いところまで良く似ている。かなり大規模な発掘跡だが、かつては一面に死者を埋葬した甕棺が埋まっていたのだと言うから、大したものだ。南内郭のおじさんは、他の弥生遺跡に対する質的な部分での吉野ヶ里遺跡の優位を強調していたが、素人目には、その規模の壮大さも圧倒的な印象を与える。

 その後は、下々の者が住んでいたというムラのエリアを通り、スタート地点に戻った。ムラの部分については、規模を別にすれば、他の弥生遺跡とさほどの違いはなく、一通り流して終わった感じだ。全国的に有名な遺跡なだけあって、確かな見ごたえを感じ、吉野ヶ里公園駅を後にする。さて、ここからが問題だ。






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