特攻の街

 池田湖から頴娃までは、山地とは思えないほど高規格の道だった。頴娃から先の知覧までも、高速道路かと見紛うまでだった先ほどよりは少し落ちるものの、まずまず走りやすい道だ。なお、指宿スカイラインには知覧ICがあるものの、指宿側からやって来てそこまで走っていると、完全な遠回りとなるため、知覧の街中まで、ずっと下道走行となる。周辺観光の目玉となるのは、やはり知覧武家屋敷と特攻平和会館らしく、道案内もしっかりしたものだ。

 薩摩の小京都、そして先の大戦期においては陸軍特攻隊の基地が置かれた地として知られる町・知覧は、平成19年12月の合併によって南九州市の一部となり、行政区としては消滅している。つまり、前回私が九州にやってきた時点においてさえ、すでに鹿児島県内から川辺郡知覧町は消えてしまっていたはずなのだが、今回実際にこの地を訪れてみるまで、そんなことは夢にも思わなかったほど、知覧という地名は私にとって印象深いものだった。何をおいても、陸軍特攻隊の一件によって、である。

 特攻隊ということになると、有名なのはなんと言っても海軍の神風特攻隊だろう。「神風」とかいて「しんぷう」と読むのが正式なのだが、「カミカゼ」で人口に膾炙している。前々から気になっていて、平和会館に行った時も、そして今も解決していない疑問なのだが、おそらく神風特攻隊は艦載機による特攻を行ったものと思われる。少なくとも、知覧の陸軍基地とは根本的に関係がないはずだ。

 特攻平和会館は、知覧の中心部と言って良いようなところにある。意外に観光客が多く、近在の駐車場には観光バスをはじめ多くの車が停まっていた。年齢に注目すれば、かなり若い客もいるが、圧倒的に高齢者層が多い。いまだに「この種の施設にいる高齢者は戦中派である」という頭があるのだが、仮に終戦時に10歳だったとしても、現在は75歳前後。個人差もあるだろうが、そろそろ、気楽に観光という歳ではなくなっているだろう。平和会館にいる高齢者たちは、どうもそれよりは若そうに見えるので、多くは「戦争を知らずに僕らは生まれた」の世代なのだろう。

 特攻平和会館は広い敷地の中に建つ、外観は平屋建てのようにも見える、慰霊施設を思わせる建物だった。敷地内にはまず、戦時中の戦闘機「隼」のレプリカや、それよりは大分時代が下ってからのものだが、自衛隊のT-3練習機が屋外展示されている。戦闘機、あるいはそれを模したもののサイズは、想像していたのよりは一回り大きかった。この他、特攻隊員の像、出撃を待つ特攻隊員が寝泊りをしていたという三角兵舎(復元)といったものが、屋外に展示されている。

 館内に入る。内部には、まず戦闘機として「疾風」「飛燕」「零戦」が展示されている。名高いゼロ戦のみは海軍の戦闘機で、これもやはり陸軍の基地であった知覧との直接的な関連性は薄いのだが、いずれも戦時中に製作された実機で、様々な経緯で現存していたのを補修、展示しているものだ。ゼロ戦にいたっては、鹿児島県の海中に沈んでいたものを知覧町として引き上げたもののようで、錆付いた外観がなんとも言えない凄味を発している。

 もっとも、館内には戦争の悲惨さや血腥さをダイレクトに表現するような展示が少ないのもまた、事実である。展示物の大半は、特攻隊員の遺書、遺品、遺影であり、その点からは、博物館の類であると同時に、慰霊施設としての性格が色濃く現れているとも言える。私はどちらかと言うと、戦争に関する大局的な資料性を期待していたので、見方が淡白になってしまったが、若い女性の一人客が、神妙な表情で隊員の手紙を眺めていたのが印象的だった。中には、終戦前後の時期には散華した若者と同年輩だったと思われる老人が、家族に付き添われて見学しているのも見当たったが、その超然とした表情からは、彼ら彼女らの胸のうちに去来する思いまでを読み取ることは出来なかった。

 館内には、高空から見下ろした開聞岳の写真をパネル展示したものもあった。特攻隊員たちは、機上からこの山の姿を見、それを通り過ぎてはこの出撃が不帰の旅となることを実感したのだという。奇跡的に生還した隊員の証言によるものか、想像で書かれたものなのかは分からないが、自分が先ほど登ってきた山にそのような意味があったことを気づかされたのが印象に残っている。

 わりとハイペースだったとは思うが、40分ほどで館内展示を見終え、知覧を後にする。次に目指すのは、大隈半島側に渡って、肝付町にある肝付城。以前そうしたのと同じように、桜島フェリーで錦江湾を渡り、50kmほどの陸路を行く形になる。




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