攻城の狼煙

 まる一夜に及ぶ船旅を終え、私はフェニックスの葉ゆれる宮崎県への上陸を果たした。船中、どうやら雨模様になりそうなことは分かっていたが、宮崎県内の天気も、微妙なところのようだ。ひとまず小康を得てはいるようだが、宮崎港フェリーターミナル周辺の路面は、ついさっきまでそれなりの量の降雨があったことを示すように、ぐっしょりと濡れていた。

 宮崎県内の公共交通機関網は、あまりに貧弱であるため、移動はレンタカーによらざるを得なかった。フェリーターミナル発宮崎駅行きのバスに乗り、とりあえず市街の中心部に乗り付けたあと、近傍にあったトヨタレンタカーの店舗に入った。車は、事前に手配している。これが夜行バスの旅なら、現地着直後に車の運転と言うのは考えられなかったが、寝台付きフェリーであればこそ、昨夜は十分に眠ることが出来、運転に支障はなさそうだった。

 最初に目指したのが、佐土原城だ。宮崎市内の交通量はさほど多くなく、市街地を抜けるまでは非常に速やかに事が運んだ。佐土原城はその名の通り、今でこそ宮崎市内となっているが、エビちゃんの故郷として知られる旧佐土原町にあった山城である。道が順調に流れても、それでも思ったよりは距離があった。

 佐土原城は、最終的には三州統一の覇望に燃える島津氏に敗れ去ったが、日向国に一大勢力を築いた戦国大名・伊東氏の、四十八城とも言われる城郭網の中でも、もっとも重要な役割を果たした城である。現在、観光資源としては、山麓に復元された城主の居館・鶴松館の方が喧伝されており、山城としての印象は希薄だったのだが、鶴松館の裏手の山に、わりと大規模な山城跡が残っており、ハイキングコースというには少し陰気な山道を登って行くと、堀切等の各種遺構が認められた。道中にはマンガ絵で城郭の遺構について解説した看板もある。

 とは言え、前日来の雨で足元がぬかるんでいたこと、わりとタイトなスケジュールだったことで、山城部分を詳細に見て回ることが出来なかった。そこが悔やまれる。一方、鶴松館の方は、さすが佐土原町のご自慢だっただけのことはあり、堂々たる風格の御殿建築だった。現存ならぬ復元御殿だし、展示資料もそれほど希少性の高い物ではなかったが、この種の無料施設にしてはがんばっている方だろう。

 佐土原城の次に目指すのが、都於郡城だ。佐土原城からは20分あまりの距離である。

 前述佐土原城と同様、伊東氏の四十八城に含まれる山城で、これまた佐土原城同様、その中でも別格的重要度を保った城である。比較的近年に国の史跡に指定されており、西都市郊外の丘陵地帯に、空堀で仕切られた複数の曲輪跡が残っている。復元整備の甲斐もあってか、ある意味では分かり易い城跡とも言える。また、その縄張りからは、南九州らしさも感じられる。

 城があるのは西都市の郊外である。18きっぷ使用の鉄道移動を軸に、公共交通機関でのアクセスを考えていた頃には、その不便さに閉口していた場所だ。車であればその種の不便さはないが、それにしても街中からは外れている。山間部ではないのだが、民家も決して多くはない丘陵地帯に、都於郡城あった。現在史跡として整備されている範囲すなはち曲輪跡は、わりとあちこちに分散している印象だが、往古にはそれらが一体となって城域をなしていたのだろう。そうしてみると、やはりそれなりに大きな城である。

 そうした曲輪の一つに足を踏み入れると、伊東マンショの像があった。全くうかつであったのだが、天正遣欧少年使節団の事実上の代表者とも言えるマンショは、この城の主であった伊東氏の縁者なのであった。大名としては島津氏に日向を追われた時点で滅亡しているが、隣国豊後の大友宗麟を頼った際、伊東氏と大友氏が姻戚関係にあったため、大友宗麟の名代として、遠縁であったマンショが使節団で中心的な立場を果たすことになったようである。

 城跡そのものは、高い土塁や深い堀切が多く存在しており、縄張りの広さのみならず、そうしたところからも城の大きさが伺える。もっとも、事前に写真で見たときの印象が鮮烈だったためか、現地を訪ねても初見ほど感銘を受けなかったのも事実だ。採点が辛くなったのには、そこかしこに見られる工事跡養生用のブルーシートのせいもあったのかもしれない。あれは、無粋である。興をそがれた、というのはあったかもしれない。






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