雨はふるふる田原坂

 田原坂は、言わずと知れた西南戦争の激戦地である。昨春の旅行で訪問するつもりだったのに、断念せざるを得なくなった目的地と言うのがこれで、長らくの宿題にひとまずけりがつく形となる。

 最寄り駅は、名前そのままの田原坂駅ということになるが、普通列車しか停まらない、本当に何もない駅である。無人駅であるのは当然のこと、鹿児島本線沿いにありながら、駅舎と言うのも頼りない、待合室のようなものがホームに面して立っているだけだ。駅構内で一番目立つものと言ったら、線路を跨ぐ陸橋ぐらいのもので、史跡田原坂に向かおうとなると、これを渡って県道側に出ることになる。途中、駅構内と駅外を仕切るものとしてはネットフェンスがあるだけで、これの切れ目から抜け出すようにしてホームを出た後、コンクリート打ちの坂を上っていく。

 今日は一日雨模様で終わりそうだが、幸い田原坂駅に降り立った時は、小ぬか雨程度の降りになっていた。まさに「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」といったところか。

 田原坂。古戦場としても有名だが、その筋では九州有数の心霊スポットとしても知られる。何でも、九州においては、これまた以前訪ねたことのある岸岳城と双璧をなすほどのところで、興味本位で行ってはいけないのだそうだ。最近言われ出したような話でもなく、私が子供の頃の「小学○年生」といった雑誌の読者投稿ページには、田原坂での恐怖体験が投稿されていたりした。何でも、家族で田原坂に行ったとき、車に乗っていたのだけれど、突然父親に目を瞑れと言われ、言われるままにしていたところ、大勢の人が近くを行進していくような足音が聞こえ、後になって車のボディを見てみると、大量の手形がべったりと残されていたとか、そんな話だった。ついでながら、地元の人は決して一人では行きたがらない、まして雨の日は絶対行かないとか、そんな講釈が続いていたように思う。そんなところに私は、雨中、一人で向かおうとしている。なお、都合一ヶ月に及んだ近辺での戦闘は、明治10年(1877)の、ちょうどこの時期、3月の出来事でもある。

 それにしても、「田原坂」と口にするのは容易いことだが、具体的にどの辺りが主戦場になったのかを調べずに来たのは、我が身の不覚である。漠然と駅周辺がすでにそうなのかとも思うが、とりあえず資料館などのある田原坂公園の方を目指そうというプランしか持っていない。

 駅から見えた台地の上に上がってみると、この辺りが九州自然歩道に指定されているらしく、道標が良く整備されている。公園、および田原坂そのものはまだ先のようなのだが、途中で七本薩軍墓地と言うのを示す道標を見つけ、とりあえずそちらに寄り道することにした。

 薩軍墓地は、ちょっとした広場の中に、比較的新しい墓碑の立つ場所だった。車十台程度も停められそうな駐車場を備えており、思ったよりは史跡整備されているといった印象のところである。位置的には田原坂とは真逆の方向にあるが、もともとこのあたりで戦死した兵士の墓地となっているらしい。数と兵装で官軍に劣る薩軍は、地の利を生かして田原坂近辺に防衛線を張っていたことになるが、その薩軍兵士がこのあたりで死んでいたと言うことは、防衛線が突破された後の戦死者と言うことになるのだろう。写真を撮らせてもらうので、せめてお墓に手だけは合わせるようにする。

 再び、公園を目指す。薩軍墓地からだと、ビニルハウスの並ぶ農村地帯の中を延びる一本道となる。車なら早いのだろうが、歩くとなるとなかなかの距離だ。

 たどり着いた田原坂公園は、思っていたよりは普通の公園だった。どういう公園が普通でないのかと問われると返答に窮するところだが、かなり広い駐車場があり、立派に観光地化されている。ただ、少し進むと、西南戦争の際に巻き添え被弾した「弾痕の家」が移築されてきているのが目に付き、ここが軽佻浮薄の観光地ではなく、史跡公園であることがあらためて実感された。

 このとき、園内の看板で近在の関係史跡の位置を知ったが、七本の薩軍墓地の近くには、官軍の方の墓地もあったようで、こちらを訪ねなかったのは、義理を欠くことになったような気がした。蛇足ながら、後で分かったところでは、最近この官軍墓地の墓石が、不心得者によってしばしば損壊させられるのだと言う。まあ、十中八九は肝試し気分でやって来る手合いの仕業なのだろう。どうやらこういう連中の中には、田原坂近隣で夜陰にまぎれて悪さをする者も多いようで、地元では夜間のパトロールのようなこともしているようである。駄法螺も、こういうことになってくると考え物である。

 気を取り直し、公園内にある資料館へ。入口に、官軍と薩軍、それぞれの兵士のいでたちをしたマネキンが立っており、一瞬ドキッとさせられる。館内には、戦時に使われた武器・兵器の実物やレプリカ、軍装、当時の錦絵、その他諸々、戦いに関するものが展示されている。いつもどおり(?)時間が限られた中での訪問だったため、駆け足にならざるを得なかったが、色々知識を得られたのが良かった。そもそも私は、なぜ田原坂がそれほどの激戦地になったのかについても理解が無かったのだが、いわば遠因を作ったのは加藤清正だった。彼の熊本城防衛構想において、北方の玉名方面から植木経由で熊本に侵攻しようとする際に、軍勢の侵攻路としての使用に耐える規格で整備したのがこの辺りでは田原坂だけで、戦術的にはここを一つの防衛ラインとしようとしていたのが、明治維新を過ぎてから現実のものとなったというところのようである。

 特に西南戦争の官軍においては、薩軍に攻囲された熊本城を救援するため、大砲を輸送可能な唯一の道である田原坂を選択せざるを得ない事情があった。薩軍は、切り通しのようになった田原坂の地形を生かしてゲリラ戦法に打って出たため、本来優位にあるはずの官軍であっても、容易に切り崩すことが出来なかったのだそうだ。

 さて、この公園にやってきて分かったことなのだが、狭義での田原坂は、公園のさらに先にあるという。公園一帯は、比高80mほどの台地になっているが、ここへ上るために付けられた道、すなはち田原坂は、約1.5kmの長きに及ぶと言う。斜度はともかく、かなり蛇行しているということなのだろう。公園の端からは、坂の一部である三の坂付近が見えたが、資料館の見学すら端折らなければならない状況の中、それだけ長い坂を歩いていく時間はない。今回は、いずれにしても宿題が残る形になってしまったので、次の機会を見つけて再訪しよう。その時は、熊本の他地域の観光も込みで、車で来るのがいいだろうなと思った。






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