鹿と大仏と私

 東大寺は、近鉄奈良駅からだとかなり近い。対するJR奈良駅は、東大寺からは遠く離れているのでかなり歩かなければならない。JR奈良駅の古い駅舎は近代建築の生きた証人として資料的価値が高いらしく、保存のためにすり足のように少しずつ移設が行われている最中だったのでこの様子を撮影した後、松永久秀の多門山城址の見学に向かう。もちろん歩いて。

 小一時間歩いて多門山城址の見学(と言うほどでもないが)を済ませ、いよいよ東大寺に向かう。これも小学校の修学旅行以来だから、やはり15年ぶりくらいの訪問だ。二条城の時と同じくここでも15年の歳月が、記憶の中のイメージと現実の風景にかなりのズレを生じさていた。

 何がと言って、春日公園の鹿の数だ。おびただしい数がいるではないか。しかも一部は公園から抜け出しているのか、多門山城址若草中学近くの雑木林でも鹿を目撃したほどである。いかに奈良とは言え、鹿は東大寺近くだけの物だと思っていた私だから、思わず「ヒャ〜」とか間抜けな悲鳴を上げそうになったが、同じ場所に居合わせた地元の人は、茂みの中から姿を現した鹿をごく当たり前の物として受け入れてしまっている様子だった。カルチャーショックである。逆に言えばそれだけ多頭数の鹿の方も、呆れるほど人間に慣れてしまっているから、基本的にはそれほど怖がるような物ではない。ただし、5月から7月にかけてはメスジカが出産期に入る関係で非常にナイーブになり、デリケートに接しなければならなくなるようだ。また、9月から11月下旬が鹿の発情期で、オスジカの気が荒くなるのでこれも注意を払わなければならないのだそうだ。オスのほうは、場合によっては角が生えたままになっていることがあるため、いかに草食動物とは言えかなり危険な相手になり得る。よく考えたら1年の3分の1は、鹿との接触に注意を払わなければならないと言うことではないか。何も知らなかったのにその端境期に東大寺を訪問できたのは、幸運だったのかもしれない。

 鹿の嵐に隠された大仏殿は、奈良の市街地側から見ると東大寺の最奥部に当る位置に建っている。卒業後何年か経ってから母校を訪ねてみるとグラウンドやら何やらを狭く小さく感じることがあるが、大仏殿に関してはその真逆だった。記憶していたのよりもはるかに大きい。そして、その中に鎮座まします大仏様もその名に恥じない巨大ぶりである。言っちゃなんだが、高岡大仏なんて目じゃない感じだ。高岡大仏は富山県高岡市にある露座の大仏で、日本三大仏の一つには数えられているものの奈良のものに比べると一回りも二回り小さい。それに対して奈良のものは、吉田戦車の「ぷりぷり県」には奈良出身者が大仏を削って小さくしようとするエピソードがあったが、むべなるかな。同じ「ぷりぷり県」の単行本には、東大寺の住職が修学旅行生に向けて「ガンダムより大きい」と説明して滑ったエピソードも紹介されているから、座位でさえ20m程はあると言うことになるのだろう。実際の数字はまるきり把握していない。もう一つ目を引かれたのはやはり、松永弾正のご乱行の痕跡であろう。現在の大仏の頭の部分だけが新しいのは、彼が大仏の首を落としたからである。傷だらけの胴体部分とのギャップはかなり激しい。その胴体も建立当初からのものではなく、蓮座だけがオリジナルなのだそうだ。この蓮座、何やら彫り込まれているのを見ると「おおっ!」という歓声も上げたくなるのだが、言ってみれば座布団みたいな物のような気がするし、大仏本体が創建当時から無傷で残っていないのは残念だ。

 大仏見学を終える頃になると、足がどうしようもなく痛くなってきた。痛くなったというより、傷めた。どうも足首を捻ったような痛み方で、こんなコンディションで奈良駅まで歩くのは考えただけでもうんざりする。南大門の金剛力士像を見ながら、駅までの戻りにはバスを使うことを決意する。金剛力士像は教科書にも載っている(最近の教科書には載っているのかしら)運慶快慶がどうのとか言う仏像である。写真はどうにも見栄えが悪いが、右側が阿形、左側が吽形のような気がする。実際はその左右阿吽が入れ替わっている可能性がなきにしもあらず。






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