楽なく、苦もなく

 北関東は、痩せても枯れても首都圏だ。従って、ニュースなどで聞いたことのある地名というのが非常に多いのだけれど、多くはある種無味乾燥な事件報道の中に出てくるだけの名前であるため、各地の人情、気候風土は全く記憶に残らない。小山もそうした地名の一つなのだが、東北本線と水戸線の乗換駅となる、それなりに重要な駅である。ちょうど昼時、やや長めの待ち時間が発生したこの駅の立ち食いそば屋で、なんとも面妖なものを見つけた。

 コロッケそば。以前、何かのギャグマンガでそういうものを見かけたことがあるが、ギャグマンガであるだけにジョークの類だと思っていた。ところが、首都圏ではメジャーなものだという。頼んでみると、本当にかけそばの上にコロッケが乗っかっていると言う代物だったが、ひみつのケンミンショーのような番組であっても、首都圏のこういう珍奇な文物については触れることがないから、地方出身者はしばしば面食らうことがある。

 小山から水戸までは、水戸線に乗り換えて1時間半ほどの道のりである。沿線には、観光名所として特筆するほどのものはないが、筑波山の北麓付近を走るのだけは気になるところだった。筑波山自体は、低山の部類に入る山だが、深田久弥は、関東というか首都近郊におけるその存在感に注目して、百名山の一つに選んでいる。が、例によってうとうとしているうちに、筑波山にもっとも近づくであろうエリアを寝過ごしてしまった。まあ、電車の窓から見える筑波山など、さほどのものではなかっただろうから、それほど惜しくもなかったが。それよりは、学生時代に筑波の某大学への進学を検討していた時期があったことを思い出し、もしあの時に筑波への進学を選んでいたら、今頃はどうなっていたのだろうかと、そのことを思って感慨深くなった。結局、筑波などは関東の僻地・田舎であろうと言う理由から敬遠し、カニやその他に釣られて金沢へ転進し、今に至っているのだが、金沢も結局は田舎だったし、今回の旅においては、筑波に秋葉原と直結する私鉄が存在することを知った。つまるところはその程度でしかない他愛もない理由で、そのありようが一変してしまったのかもしれないのだから、人生とは不可解なものである。

 などと考えているうちに、水戸駅に到着。想像していたのよりは小規模な駅だ。駅のホームで納豆の広告を見かけるあたりはいかにもそれらしく、駅舎を出ると、ロータリー直上のデッキに、かの有名な3人の銅像が建っていた。これもまたお約束である。

 さて、お目当ての水戸城だが、水戸徳川家は、尾張家、紀州家と並ぶ、いわゆる御三家の一つである。それならば、その居城である水戸城の規模もさぞや壮大だろうと思いきや、往時からかなり質素なものだったと言う。いかにもな城郭と言うよりは、陣屋のような、屋敷構えのような、さほど物々しくないものだったと言うことだそうだが、現在ではそれがさらに、都市化の波に洗われてしまっている。

 今回ここで水戸城とは言っているものの、現在では正直なところ、城跡公園と呼べるようなものすらない。かつての城の縄張り、城内通路を基調とした街区が形成され、城内通路が道路となり、堀跡を電車が走っていたりするところに、城の痕跡を見つけるのが水戸城の歩き方と言うことになる。一応、土塁程度のものは残っているし、城郭建築と言えるのかどうかは微妙なところだが、藩校弘道館の跡は、ある程度かつての面影をとどめている。

 明治時代、もはや過去の遺物とみなされるようになった城は、街の中心にあたるその広い敷地に利用価値が認められ、役所や駅、学校、あるいは陸軍鎮台に転用されることがままあった。水戸城もその例に漏れず、敷地内に旧制中学が建てられ、現在それが県立水戸第一高校として存続しているが、その敷地内に水戸城薬医門とされるものが移設されている。水戸城跡散策は、その門を見学したのを潮に、締めくくった。







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