八甲田山夏の彷徨

 2日目は、一日かけて青森県内をドライブする。立ち寄り先は順番に、根城、三戸城、大浦城、浪岡城、八甲田山、恐山。津軽半島方面にこそ出かけないものの、青森を西へ東へ南へ北へ、駆けずり回るようなコースプランニングだ。事前に、ゼンリンの地図ソフトを使ってシミュレートしてみたところ、これだけのところを回ろうとすると、移動だけで8時間50分の時間を費やすことになるようだ。これがカーナビのはじき出した所要時間なら、実走してみると大幅に短縮されることもありうるのだが、ソフト自体の信頼度に鑑みて、この8時間50分と言う数字はかなりリアルである。これ以上に移動時間が伸すことはあっても、短縮されることは余り期待しない方が良い。各ポイントの滞在時間も考慮すると、1日で回れるぎりぎりの範囲と言うことになるだろうか。

 とにかく、青森で最初の目的地は、根城である。八戸市内にあり、スタート地点となった八戸駅からもさほど離れておらず、道順もそんなに難しくなく、しかも根城の広場として、近くまで行けばかなり目立つ姿に整備がされているらしい。まずはここに行き、落ち着いた駐車場で、カーナビをセットしつつ、今日一日のシナリオを書こうではないか。そう思い、白いヴィッツで走り出す。近くまで行くのは雑作もなかったのだが、あにはからんや、駐車場の入口を間違え、周辺をぐるりと一周した後でようやく車を停められたという、実に幸先の悪いスタートとなった。ともあれ、気を取り直して城跡の方へ向かう。広場と言うだけあって、一帯は芝生の敷き詰められた、開放的な公園になっている。そして、そうした広場のさらに先に、木製の防柵と板塀に囲われた、中世の武士の居館が見えてきた。これが、復元された根城である。

 根城は、もとは南北朝時代の城で、日本100名城の一つとなっているので、とりあえず出かけてみたというのが真相なのだが、百選の一つに入るだけあって、さすが見所がある。戦国時代の大規模城郭ほど、先鋭的な防御機構は見られないのだが、南北朝期の城館というのがこういうものかと、感心させられることしきりだった。惜しむらくは、9時開園のところを、そうとは知らず半ば出会い頭の事故のような形で8時半少し過ぎに入園する形になってしまったため、館の中などがまだ開園準備が出来ていないような状態で見学しなければならなかったことだ。もっとも、通常の開園時間まで待ってから中を見学したのでは、今日のスケジュールに大幅な遅れが生じることになるため、これはこれで良かったのかもしれない。

 そうは言うものの、根城見学には元々それほどの時間をかけるつもりはなかった。それが実際にはここで思いがけず時間をかけることになっため、二日目の日程は、常に遅れに悩まされることになる。

 根城に続いて、戦国南部地方の雄であった南部氏の城と言うことで立ち寄った三戸城は、少々の期待はずれだったと言わざるを得ない。城跡は、八戸町の中ほどに、都市公園としてバッチリ整備されているが、余りに城跡らしくない。主郭部の中枢となる部分が神社の社有地となってしまっており、自由に見学できないのも有難くないし、本丸に至っては単なる駐車場だ。横手城と同じく、天守閣を模した資料館もあるが、内容的にはこれといって見るものもなさそうだ。一部石垣も残っているのだそうだが、どうやったらたどり着けるのか良く分からず、根城で日程に遅れが生じ始めていることもあって、パスした。

 次いで、八甲田の山中にある「雪中行軍遭難者銅像」へ。八甲田山の雪中行軍といえば、新田次郎の著作「八甲田山死の彷徨」でつとに知られている。「天は我々を見放した」の台詞は余りにも有名だ。三戸城からは2時間近くの遠い道のりとなったが、道中に信号がほとんどないため、正しく快走路と呼ぶにふさわしい道中で、途中からは爽快な高原ドライブとなる。夏場の八甲田山は高原リゾート地の趣で、明治時代、二百名近い軍事訓練参加者の命を奪った冬の厳しさは実感できない。

 そんな高原道路をしばらく走っていると、唐突に銅像茶屋と言うドライブインが姿を現す。その名の通り、くだんの銅像に隣接して建てられた観光施設で、駐車場には観光バスも含め、多くの車が停まっている。ことほど左様に、この銅像は夏場の八甲田ドライブコースの立ち寄りスポットと化している。

 銅像は、仮死状態に陥りながら結果的に生還し、遭難の生き証人となった後藤伍長の像なのだそうだ。なお、訓練の参加者は付近一帯のそこかしこで亡くなっており、銅像のある場所は、この遭難事件全体においては、特段重要な意味を持つ場所ではないようである。むしろ、付近の道路沿いなどにひっそりと建立されている石碑に、「第○露営地」とか刻まれているのに気がついたときの方が、はっとさせられた。何の飾り気もないために、事件の記憶を生々しく伝えているとも言える。

 ここから、次の目的地である大浦城までは、国道394号を行けばよかったはずなのだが、ナビの口車に乗せられ(冬季閉鎖区間に踏み込んだため、ナビが正常な判断を出来なかったのだとは思う)、青森市街側に下ってから東北自動車道を浸かって大鰐ICまで移動するようなルートを辿った。そのせいで、ただでさえ遅れ気味だった日程は、いよいよ遅れに遅れることになった。

 そして、そこまでしてたどり着いた大浦城址(大仏公園)も、城跡としてはもう一つパッとしない。削平跡、土塁、堀切のような地形は見られるのだけれど、近年の公園整備によるものとの判別をしかねる状態になっているのが、都市公園化の顛末を辿った城に付き物の悩みだ。

 逆に、掘り出し物だったのがその次に持ってきた浪岡城だ。事前情報も乏しいまま訪問したのだが、現地に着いてみれば、国の史跡なのだそうだ。そして国の指定を受けるだけあって、平城の割に城郭地形が良く残っている。いや、平城の中ではかなり状態が良いと言うべきか。建物の復元などは行われていないが、発掘調査を元に、ある程度の史跡整備が行われており、堀で仕切られた曲輪群の姿を見て取ることが出来る。とは言え、時期があまり良くなかったか、雑草が良く伸びていたため、地形をつぶさに観察できたと言うわけではない。






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