八雲立つ

 「八雲立つ」は出雲にかかる枕詞だ。いかにも島根方面へ行き来する特急に相応しい名前である。この他出雲地方には、「奥出雲おろち号」なるちょっぴりプリミティブな響きのある車両が走ることもあるようで、やくも号乗車中もその存在が気になっていたのだが、これはどうやらトロッコ列車らしい。季節が良ければトロッコも楽しかろうが、あまり暑くてはかなわんだろうなあ。

 鈍行で何度か旅していて気付いたのだが、日本各地にはJR東日本と東海、あるいは東海と西日本など相互の営業区域境の他に、もう少し小さな島の途切れ目があるらしい。なぜそんなものがあるのかは未だに分からないのだが、例えば今回の旅でネックになった姫路-岡山間や、名古屋近くだと豊橋-浜松間などは、管轄会社が同じなのに周辺よりも列車本数が少なく、接続が悪くなっている。どうやらそういうポイントが伯備線上にもあるらしく、新見駅を境にして、岡山と山陰の隔たりがあるようだ。岡山から続けられていた車内販売は、どうやら新見までで終了となるらしい。もちろん、新見から先もやくもの旅はまだまだ続く。むしろ、新見から先が旅本番と言う気がしないでもない。のどが渇いたり小腹が空いたりしても、サービスを受けられないと言うのは不便な事だ。

 いたちの何とやらではないが、駆け込み需要よろしく買ったアイスコーヒーをすすりながら、夏目漱石の「こころ」を読む。随分前に買った本だがなかなか読む時間がなかった。こういう列車旅の中で読むにはちょうど良かろうと思って持ってきたものだ。高梁から新見あたりまでは渓谷の風景を眺める楽しみもあるが、そこから先は風景がやや単調になるので、本でも読んでいるとちょうど良い。それでも時折、車内アナウンスで分水嶺を通過したことを教えてくれたり、JRは乗客を慰める工夫をしてくれている。

 伯備線は、終点の伯耆大山駅近辺で鳥取県に入る。伯耆大山駅はその名の通り、中国地方の最高峰大山を東に望むような場所にある駅だ。伯耆富士の別名を持つ大山への登山客を迎える駅なのかもしれないが、山麓というにはちょっと外れている。もっとも、ここから先山陰本線に入って走り続ける特急やくもにとっては単なる通過駅の一つに過ぎないし、島根を目指す場合は一時的に鳥取県に入っただけというニュアンスが強い。伯耆大山駅から進んだ米子駅では、地元出身の水木しげるにあやかってゲゲゲの鬼太郎妖怪軍団が出迎えてくれる。彼の本当の出身地は境港市なのだが、同市が半島部の突端近くに位置する「外れの町」であるため米子駅で宣伝しているのかも知れない。

 米子市の隣はもう安来市。安来節で有名な島根県の都市である。次なる目的地・月山富田城のある街だ。安来駅は、駅舎も平屋建てでホームの数も少なく、決して大きな駅ではないのだけれど、一応特急が止まる。富田城を目指すには、ここで列車を降りてバスに乗り込む必要がある。改札を出ると、ちょっとばかり殺風景な駅前の風景に戸惑う。どこからバスに乗れば良いのか。高梁の時で癖が付いてしまい、いっそのことタクシーを使おうかとも思ったが、そもそもタクシーを捕まえられるかどうかが怪しい。善後策を思案していると、観光案内所と書かれた看板を見つけた。何かうまい解決策が見つかるのではないかと思って標識に従って進んでいくと、I社の物置のような簡易事務所を見つけた。そこにいたおじさんに富田城への行き方を聞くと、一瞬怪訝な顔をされた。どうもここから富田城を目指す人が少なそうな気配だ。それでも、城のある広瀬地区(2004年までは能義郡広瀬町だった)のパンフレットと、安来市内交通の要になっているらしいイエローバスの乗り方を教えてくれた。内回り・外回りのある循環バスらしく、駅前からこれに乗れば20分ほどで広瀬地区まで行けるらしい。本数は至極少ないのだが、幸いあと10分ほどでバスが出るようだ。おじさんに言われたとおり、駅前の広場にやって来た黄色い小さなバスに乗り込んだ。一応運転手のおじさんにも富田城へ行くかと尋ねてみると、再度「何のことか?」という感じの微妙な反応を返されたが、広瀬方面には行くとの答え。どうやら、安来市における富田城の地位は決して高くないらしい。

 とにかく富田城方面には行くということなので、イエローバスを利用させてもらうことにする。山陰地方と言うと過疎地のイメージがあり、確かに駅周辺で市役所などもある安来市街もさほど栄えている様子ではなさそうだったが、郊外の農村地帯の様子は、日本全国津々浦々の田舎とさほど変わるところがない。バスは、延々水田地帯の中を走り続ける。おじさんは20分ほどで城まで行けると言ったが、30分を過ぎても広瀬町が近づいている気配がない。実は薄々気付いていたのだけれど、このバスは観光案内所のおじさんが行っていたのとは逆方向に回るバスらしい。どうやら1周が60分強ほどのコースらしいので、逆回りすると安来駅から広瀬町までは40分以上かかることになる。そしてその予想は概ね正しく、予想所要時間の2倍強の時間をかけて広瀬バスセンターに到着。ここから城を目指すためバスを降りようとすると、運転手のおじさんが「もっと近い停留所があると思う」と教えてくれた。もっとも、おじさん自身、どのバス停が富田城の最寄かを把握していないらしい。バスセンターにいる同僚と相談して、「広瀬ショッピングセンター前」が一番近いのではないかと言う。地元民同士が相談しなければ分からない最寄バス停、しかもその名前がショッピングセンター前。安来市における富田城のマイナーぶりは、いよいよ本物である。

 ともかく、教えられたとおりにバスセンターから5分ほど乗り続けたところにあるショッピングセンター前でバスを降りた。イエローバスは、どれだけ乗り続けても乗車賃は一律200円らしい。この安さはありがたい。予定よりも早く安来駅に着いたはずだが、バスに揺られていた時間が長かったので、城への到着時間は思いのほか遅くなった。時計はすでに16時を回っている。この山城を、明るいうちに登りきり、かつ下山できると良いのだが。とにかくバスを降り、途中にある尼子経久像を見たりしながら城を目指す。像は、10年ほど前に毛利元就が大河ドラマ化されたのをきっかけ作られたもののような雰囲気で、まだ新しい。

 飯梨川を渡ると、間もなく富田城への登り口を見つけた。しかしその前に、堀尾吉晴の墓にも立ち寄ることにする。吉晴は関ヶ原の戦い後に出雲に加増転封、当初は富田城を居城としていたが、山が迫るこの城の周囲では大規模な街づくりは望めないと、政庁を松江に移した。こうして今に残る松江城が築かれ、吉晴自身は初代松江藩主となったのだが、死後は富田城の巌倉寺に葬られた。昨年春の高知旅行では、大河ドラマ「功名が辻」にちなんで山内一豊の足跡を辿ったが、同じドラマで一豊のライバルとなっていた吉晴は、一豊と同じように名古屋の北方・丹羽郡大口町に生まれ、ここ出雲の地で永眠したのである。吉晴自身が富田城下に葬られることを望んだのかどうかは寡聞にして知らないが、彼は富田城に対してどのような想いを抱いていたのだろう。

 さて、夏の日は長いとは言え、太陽もそろそろ西の空に傾いている。史跡として整備されてはいるものの、山道を行くのに暗い中では都合が悪い。見学は速やかに、出来るだけ早く本丸まで行って帰らなければならない。ところが焦る気持ちとは裏腹に、城跡の道は入り組んでいて、順路通りに進んでいるつもりでも突き当たりに行き着いたりしてしまう。迷い迷いしながら進むこと30分で、ようやく本丸にたどり着いた。なるほど、かなり規模の大きな山城ではあるが、ずっと登り通しというわけでもないので、さほどには疲れなかった。構造的には本丸周辺の郭と、山麓部の外郭との二段構えになっている感じだ。相互の連絡はやや疎な印象を受ける。なお、本丸周辺も一通り整備されているものの、あまりまめに手入れされてはいなさそうな気もする。対照的に、山麓部は綺麗にされている。どうやら近々「幸盛祭」なる催しが開かれるようだが、そういう大規模なイベントが行えるほどの広場があるのだ。幸盛は、富田城ゆかりの武将・山中鹿之助の事である。

 城からの引き上げにもイエローバスを利用。バスはこの先、荒島と言う駅で停まるらしい。調べてみると、域に列車を下りた安来駅よりも一つ松江側にある駅のようだ。今夜の宿はもちろん松江に求める。特急にでも乗りたいのなら安来まで戻るべきところだが、ここから先は鈍行で進む。あえて安来まで戻る必要もないし、荒島駅前でバスを降りた。






臥牛山の城 TOP 宍道湖の残照








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